ぴんぞう二の丸(八幡神社)にある案内板
| 機種名 | Sony SO-52A |
|---|---|
| ISO | 64 |
| F値 | 1.7 |
| ホワイトバランス | オート |
| シャッタースピード | 1/124 |
| レンズ焦点距離 | 5.1 mm |
| フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
| 露出モード | 自動露出 |
| 露出時間 | 1/125 |
| 画像方向 | 水平(標準) |
史跡 亀ヶ森城跡
亀ヶ森城は、八幡館とも呼ばれ、戦国時代末期には亀ヶ森地方一帯を支配した豪族・亀ヶ森氏の城館跡である。
言い伝えでは、この城は文亀三年(一五〇三)に稗貫氏の家臣八木沢外記(げき)が、この地に居を移したことに始まるという。しかし、天文九年(一五四〇)八木沢氏が没落すると、代わって亀ヶ森図書(ずしょ)が城主になり、天文十年には八幡神社、さらに翌年には菩提寺の中興寺を建立し、城下の整備を進めた。現在でも、この城の周辺には上屋敷・鍛冶屋敷・上宿・中宿・下宿などの地名が残っている。
城は、現・八幡神社の建つ二の丸、その背後の一段高い場所に本丸を築いている。山の三方には二重~三重の曲輪をめぐらし、南側の尾根を空堀で断ち切るという典型的な中世山城である。ただ、亀ヶ森城は平地に近い山城であり、最も弱い南側と東側の守りを強化するために、南側の通称「亀ヶ森」と呼ばれる山には二重の空堀をめぐらし、東側は沢を利用した幅広い堀を設けている。これにより、東西百㍍、南北四百㍍に及ぶ広大な敷地をもつ花巻地方では最も保存のよい中世の名城の一つとなっている。
亀ヶ森氏最後の城主玄蕃(げんば)は、天正十八年(一五九〇)主家・稗貫氏の滅亡とともに所領を没収されるが、その一族は南部家の家臣として存続した。名を山屋三右衛門と改めた一族からは、皇太子妃・雅子さまの母方の曾祖父にあたる海軍大将山屋他人(たにん)が出ている。
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江戸城天守を再建する会の特別顧問をされている三浦正幸先生が書かれた著書で三浦先生のお話は講演会等でよくお聞きしているので、お城の構造について勉強したく手に取りました。前半は天守の外壁、窓、狭間、石落、そして基本的構造について詳細に解説されており、外壁の仕上げ、屋根、破風の形に格式の上下があることを知り、今後天守の見方が変わるように思えました。後半は現存12天守、失われた天守の詳細説明がされています。熊本城の宇土櫓が第一期普請で建てられた初代天守であることを初めて知りました。この一冊で天守の構造に付いてほぼ網羅していると思いますので、天守の構造について詳しく知りたい人にはお勧めです。なお、続編として「櫓・城門編」もあるようですのでそちらも読んでみようかと思います。
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