機種名 | Sony SO-52A |
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ISO | 64 |
F値 | 1.7 |
ホワイトバランス | オート |
シャッタースピード | |
レンズ焦点距離 | 5.1 mm |
フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/6400 |
画像方向 | 水平(標準) |
比叡尾山城(ひえびやまじょう)跡
中世,三次盆地を支配した三吉(みよし)氏代々の居城で,1591(天正(てんしょう)19)年に三次町の比熊山城(ひぐまやまじょう)に移るまでの約400年間続きました。標高410m,(麓からの高さ220m)の頂上からの眺望は素晴らしいものです。今でも熊野神社の裏から本来の大手道を登ることができます。本丸に相当する主郭(しゅかく)は南北70m×東西40mで,石垣で組まれた門の跡や土塁(どるい)も明確に残っています。複雑に配置された郭は約50を数え,その一つには石組の半地下式の穴蔵(あなぐら)跡もあります。主郭の東の谷にある一画は埋門(うずめもん)を構えて側面を堅固な石垣で築いており,相当な規模の建物があったことが想像されます。あるいは,合戦が日常化する戦国時代には家族が生活していたのかもしれません。三の丸に当たる郭の北側の斜面下をよく見ると,窪地(くぼち)で水がわき出ており井戸の設備が考えられます。周囲の入り組んだ土塁と郭は籠城(ろうじょう)の際大切な水の手(飲み水)を守る役割を果たしていたのでしょう。さらに,西斜面に幅3m,深さ2mの溝が真っすぐ麓近くまで堀り下げてあります。これは攻めて来る敵兵を分散させる機能を持つ戦国時代特有の「竪堀(たてぼり)」と呼ばれるもので,当時の軍学書にも重要な施設として書かれています。また,城跡より谷を隔てた東側には三吉氏の菩提寺(ぼだいじ)であった高(こう)(光)源寺跡(げんじあと)があり,ここには多くの墓石が残っています。
三次市
三次市教育委員会
説明板の内容は以下 -- 比叡尾山城本丸跡 (2550㎡ 約770坪) 標高420mで三吉氏の本拠であり、建久3年(1192)8月佐々木秀綱が三次地方の地頭職を得て、比叡尾山城を築き居住したのが初めという。以後15代400年の歴史の中で徐々に拡張され今も残る形となっております。
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