大森城は伊達氏と深いかかわりのある城です。
伊達政宗の祖父にあたる伊達晴宗と、曾祖父にあたる伊達稙宗とが親子で戦い、奥州全体を巻き込むことになった「天文の乱」では大森城もその舞台になりました。
大森城は会津の蘆名氏や二本松の畠山氏らの所領に接した要衝であったために重要視され、晴宗の弟で、伊達成実の父である伊達実元が城主として入ります。
成実は1583年(天正11年)に家督を継いで大森城主となり、伊達領南方の抑えを担います。
1586年(天正14年)、成実が大森城から二本松城主へと移されたことにともない、片倉小十郎景綱が大森城に入城しました。
このように大森城は二代にわたって政宗の腹心が城主をつとめた城といえます。
大森城はその後も相馬・蘆名氏を攻めるための拠点として利用され、摺上原合戦によって蘆名氏を滅ぼした際にも政宗は大森城に入っています。
しかし豊臣秀吉の奥羽仕置によって政宗は会津・岩瀬・安積・信夫・伊達・長井の各郡を没収され、大森城は蒲生氏郷の客将である木村吉清に与えられます。
吉清は2年ほどのち、居城を大森城から杉目城(のちの福島城)に移し、大森城は一時空城になりましたが、1598年(慶長3年)に蒲生氏に代わって上杉景勝が入城すると、上杉家臣の栗田刑部小輔国時が大森城代として入城した。
その後、大森城は芋川正親・元親・綱親・高親と4代つづきましたが、1664年(寛文4年)に上杉氏が減封されるとともに幕府直轄地となり廃城となりました。
現在、城址には案内板が設置されています。
大森城の歴史
作成
- 一、南北朝争乱のころ
- 北党の佐藤十郎左衛門盛衡という武将がいたと伝える。
- 一、永正三年(一、五〇六)のころ
- 常光寺(現清明町)が大森城下に創建されたという。
- 一、天文十一年(一、五四二)
- 伊達十四代稙宗(たねむね)と十五代晴宗の父子が戦い、大森城でも争乱の舞台となった。
- 一、天文十七年(一、五四八)
- 伊達氏の争乱が終りこのあと大森城に十五代晴宗の弟伊達実元が入り周辺の村々を領地とした。
- 一、永禄十一年(一、五六八)
- 伊達成実が実元の子として大森城で生れた。
- 一、天正十三年(一、五八五)
- 伊達実元、大森城を子成実にゆずり八丁目城に退隠
八月伊達政宗は大森城を拠点として東安達を攻める。- 一、天正十四年(一、五八六)
- 九月大森城主伊達成実二本松城へ移り片倉景綱が大森城主となった。
- 一、天正十六年(一、五八八)
- 五月政宗が米沢から大森城へ入り安達、田村で戦う。
- 一、天正十七年(一、五八九)
- 四月政宗また大森城へ入り相馬、会津を攻める。援軍の鉄砲隊五百人大森城下へ到着。城主片倉景綱と土湯をこえて会津へ参戦。
- 一、天正十九年(一、五九一)
- 六月南部九戸氏の乱のため豊臣秀次、徳川家康ら大森城下の常光寺に往復宿陣。
九月政宗は豊臣秀吉に領地没収され蒲生氏郷の客将木村吉清大森城主となり五万石を領す。- 一、文禄三年(一、五九三)
- このころ木村吉清大森城を廃し杉目城へ町家寺社を移しそこを「福島」とした。
- 一、慶長三年(一、五九八)
- 一月信達地方は上杉景勝の領地となり大森城代として栗田国時がおかれた。
- 一、慶長五年(一、六〇〇)
- 三月(八月とも)大森城代栗田国時は徳川家臣となるため大森城を脱出し伏拝坂で討たれた。
- 一、慶長六年(一、六〇一)
- 八月上杉領大森城代として芋川正親が白河より移った。
- 一、慶長十九年(一、六一四)
- 十一月大森城代、芋川元親は上杉方の武将として大阪冬の陣へ参加した。
- 一、明暦四年(一、六五八)
- 廃寺となっていた小倉陽林寺子院の円通庵が「円通寺」としてこのころ館ノ内地内に再興された。
- 一、寛文四年(一、六六四)
- 米沢藩主上杉綱勝が急死。六月領地半減。大森地方は徳川幕府領となり城主芋川氏、米沢家老として移り大森城は廃止された。
信夫地区史跡保存会
信夫地区観光協会