細川たま(ガラシャ)が幽閉されたとされる場所(細川ガラシャ夫人隠棲地)ですが、京丹後市観光公社に問い合わせたところ「女城」については「めじろ」と読んでいると教えていただきました。
また「味土野女城」とは呼んでおらず、あくまでも「味土野にある女城(めじろ)」と呼んでいるとも伺ったのですが、一方で現地には「味土野女城跡」と書かれた石碑もあります。
そこで京丹後市教育委員会の文化財保護課に問い合わせてみたところ、以下の回答をいただきました。
- ガラシャの生きていた時代の史料(同時代史料)にその事実を確認することができない
- 江戸時代中期以降の史料にようやく出てくるが、それらの史料に記される味土野は「押込め置し所」で、城ではない
- 「女城」という城の名前が最初に出てくるのは1916年(大正5年)の史料である
攻城団としては、姫路城や彦根城のように地名+城で「みどのじょう」と呼びたいのですが、そもそも史料上では「味土野城」といった名称すら出てこないとのことでした。
ただし「女城跡の現状は、石碑の立っている場所と、看板や東屋がある場所など平坦な場所がいくつかあるため、城跡とみて問題はないと思います」ともお答えいただいており、城に相当する施設ではあったようです。
また石碑にある「味土野女城跡」についても「みどの/めじろあと」と読むのが正しいようです。よって答えとしては「みどのめじろ」となります。
なお現地には谷を隔てた向かい側の尾根に警備・監視する者が詰めた男城(おじろ)と呼ばれる出城がありますので、攻城団の登録、記載をどうするかについては悩んだのですが、ひとまず「味土野女城(みどのめじろ)」で登録して、男城は出城の扱いで女城に含めておきます。
(いずれ分割するかもしれません)