松永久秀の居城で、久秀とともに廃城となった信貴山城の歴史を時系列でまとめています。
信貴山城の歴史
信貴山城とは現在の奈良県生駒郡の「信貴山」にあった山城です。
信貴山は標高約437mで大和と河内の境にある生駒山系に属する山です。
7世紀半ば頃に築城された古代山城の「高安城(たかやすのき)」の域内にありますが、信貴山城からは古代の遺構は見つかっていません。
史料上初めて信貴山の城を確認できるのは1460年(長禄4年)で、「応仁の乱」の戦で敗退した畠山義就が信貴山に陣をしいたことが記録されています。
また、明応年間(1492年~1501年)の終わり頃から永正年間(1504年~1521年)のはじめ頃にかけて、畠山尚慶が「信貴城」を用いたという記述も残されています。
ここに本格的な城郭を築いたのは畠山氏の家臣であり、河内国や山城国南部の守護代であった木沢長政(きざわながまさ)です。
1536年(天文5年)の記録では「信貴城」の名や、本願寺から信貴山城の築城祝いに酒が贈られたことを確認することができ、この時点で一定の設備が完成していたことがうかがえます。
1542年(天文11年)の「太平寺の戦い」で長政が三好長慶らに敗北すると、以降20年近くも信貴山城は放置されます。
次にこの城を手にしたのが大和国の実効支配権を握った松永久秀で、通説では1559年(永禄2年)に入城したとされています(翌年の説もあり)。
信貴山城を現在確認できるような規模に改修したのが久秀で、これによって南北約880m、東西約600mという大規模な城郭が出現しました。周辺にはいくつかの支城を設け、複合的な要塞機能を完備していたことが想像されます。
信貴山城はその後、一時的に筒井氏の手に渡りますがほどなく奪還。
1568年(永禄11年)に三好康長によって落城した際は、同年の足利義昭、織田信長の上洛に伴う援軍を得て再び奪還に成功しています。
しかし1577年(天正5年)、信長に反旗を翻した久秀は信貴山城に籠城、織田信忠が指揮する軍勢により信貴山城は陥落します。このとき、久秀は天守に火をかけて自刃したと伝わり、有名な「平蜘蛛の茶釜を道連れに爆死」というのは後世の創作とされています。
その後は信貴山城が使用されたという記録がなく、この戦闘をもって事実上の廃城と考えられています。
変化する城の役割と「戦国期拠点城郭」
信貴山城は最初期の天守相当建造物が設けられた城ともいわれており、本丸跡地には4重の櫓が建っていたと考えられています。久秀の別城である「多聞山城」にも白塗りの櫓が建っていたとされ、1574年(天正2年)に検分に訪れた信長に強い印象を与え、それが安土城の築城に影響したという説もあります。
中世までの山城というと、兵が常駐する要塞というよりは有事の際に籠もって迎撃するための防衛拠点という側面が目立ちます。同時に、侵攻した場合のリスクを視覚的に知らしめるためのいわば「抑止力」としての機能も持っていたのです。
しかし、戦国期になってからの城郭はそれだけではなく、軍事と政治の中枢として多彩な機能を付与されることになります。有事には要塞として、平時においては政庁としても機能し、城下に町を形成するような象徴的な拠点となったのです。
これを戦国期の「拠点城郭」ともいい、その始まりが信貴山城であるとも考えられています。
松永久秀が信貴山城の改修に着手したのも、それまで大和の支配者であった木沢氏の後継者として自身を印象付ける意図が含まれていたとされ、そういった点でも「見せる城」としての側面も強調されたのでしょう。
これらのことからも、信貴山城が戦国史に与えた影響の大きさと、久秀のもつ革新性とが浮き彫りになってきます。
信貴山城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
---|---|
667年(天智天皇6年) | 高安山に古代山城「高安城(たかやすのき)」が設置される |
701年(大宝元年) | 高安城が廃城となる |
1536年(天文5年) | 河内・山城南部の守護代であった木沢長政により信貴山上に築城 |
1542年(天文11年) | 「太平寺の戦い」で木沢長政が敗死。信貴山城が落城 |
1559年(永禄2年) | 松永久秀が改修、城主となる |
1560年(永禄3年) | 信貴山城に「四階櫓」が設置される |
1568年(永禄11年) | 三好康長により落城するが、後に奪還 |
1570年(元亀元年) | 松永久秀が信貴山城に本拠を移す |
1577年(天正5年) | 「信貴山城の戦い」で織田信長により落城。廃城となる |