近江と京を結ぶ要衝に位置し、森可成が城主をつとめた宇佐山城の歴史を時系列でまとめています。
宇佐山城とは
宇佐山城は現在の滋賀県大津市南滋賀町に所在した山城で、別名を志賀城や志賀要害などともいいます。
琵琶湖の南西端あたりの宇佐山(標高約336m)にあり、湖西ルートで京の都に入るためには避けて通ることのできない交通の要衝に立地していました。
築城開始は1570年(永禄13年)頃のことと考えられ、『多聞院日記』には信長が志賀郡から京の都へと至る幹線道路である今道越(いまみちごえ)と逢坂越(おうさかごえ)を封鎖し、家臣の森可成に命じて宇佐山城を設置したことがうかがえます。
そして滋賀湖西ルートから京への一本化した道路を新設し、その監視・防衛拠点としての役割を期待されたものと考えられます。
完成は1570年(元亀元年)で、森可成が城主として入城。攻めの三左の異名をとる槍の名手で、信長の小姓として有名な森蘭丸(成利)の実父としても知られる猛将でした。
信長が交通網掌握とともに宇佐山城をこの地に築いたのは、ひとえに朝倉義景や浅井長政らの南進を食い止めるためだったといっても過言ではないようです。
同年8月16日に戦端が開かれた野田城・福島城の戦いは別名を「第一次石山合戦」ともいい、10年にもおよぶ織田氏と石山本願寺との戦いの端緒となったものです。この戦いにおいて同年9月16日、宇佐山城主・森可成は近江坂本を占拠。街道封鎖作戦などによって初戦では浅井・朝倉連合軍の撃退に成功します。
しかし、そこに延暦寺の僧兵部隊や浅井長政の本隊、他諸将の部隊が浅井・朝倉連合軍に合流し、森可成らは討死してしまいます。
城将を失いつつも宇佐山城兵はこれをよく守り、ついに落城することはありませんでした。
同年9月24日、信長自身が救援のために軍を率いて坂本に進軍し、形勢は逆転。この時は宇佐山城を本陣としたと考えられています。
浅井・朝倉は比叡山方面に撤退する形となり、信長は比叡山への懐柔工作を行いますが決裂。『信長公記』では、これがのちに比叡山焼き討ちにつながったとしています。
信長は同年11月に六角義賢と、ついで12月14日には浅井・朝倉と和睦しています。
その後、城将に任命されたのが明智光秀で、翌1571年(元亀2年)7月3日には『元亀二年記』の著者が宇佐山城を訪問し、光秀が近江・京都間の交通網掌握と延暦寺攻略のための任務を帯びて着任したことを記しています。
同年9月には光秀が雄琴の和田氏や八木氏など有力土豪を、懐柔のため宇佐山城に招いたことが『和田文書』の「光秀書状」からうかがえます。
しかし同月12日、ついに信長による比叡山焼き討ちが決行。その後光秀は坂本の地に築城を命じられ、坂本城主となったため宇佐山城は廃城されたと考えられています。
短命ながら拠点防衛を担った宇佐山城
宇佐山城の発掘調査は1968年(昭和43年)から3年にわたって行われ、各種遺構が検出されています。
城郭は宇佐山の南北方向の尾根全体に築かれ、南北約170m・東西約45mという規模になっています。
本丸は尾根中央部に位置し、南北約30メートル・東西約15メートル。北から三の丸・本丸・二の丸という順で、やや「くの字」型に配置されています。
櫓・石垣・溝を有し、本丸跡からは瓦も検出されているため相応の建造物のあったこともうかがえます。
宇佐山城はわずか2年ほどといった短い歴史の城ですが、織田氏にとって近江から京への交通網掌握という課題において、拠点防衛という重大任務を果たしました。
短命ではありましたが、本来的な役割をまっとうしたうえでの廃城といえるでしょう。
宇佐山城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1570年(永禄13年) | 3月頃、織田信長家臣・森可成により今道越と逢坂越を封鎖して城の構築が開始される |
1570年(元亀元年) | 5月、宇佐山城完成。森可成が城主として入城 |
同年 | 9月16日、森可成が野田城・福島城の戦いで坂本を占拠。街道封鎖により浅井・朝倉連合軍の進撃を阻止 |
同年 | 9月20日、坂本の戦いで浅井・朝倉連合軍及び延暦寺僧兵・浅井長政本隊・諸将隊の攻撃を受け、森可成らが討死。宇佐山城も攻撃されるが落城せず |
同年 | 9月24日、信長が救援として坂本に進軍。宇佐山城に入り指揮を執る |
同年 | 11月、信長が六角義賢と和睦 |
同年 | 12月14日、信長が浅井・朝倉と和睦。その後明智光秀が宇佐山城の城将に |
1571年(元亀2年) | 7月3日、『元亀二年記』の著者が宇佐山城の光秀を訪問 |
同年 | 9月、光秀が雄琴の和田氏や八木氏等の有力土豪への懐柔策を実施。しかし同月12日の比叡山焼き討ち以降、光秀の坂本城築城・移転により宇佐山城は廃城 |
1968年(昭和43年) | 発掘調査により宇佐山城遺構が検出。1971年まで調査継続 |