沓掛城址である「沓掛城址公園」には石碑と案内板が建てられています。
沓懸城址
一四世紀のころから、近藤宗光を初代として、代々沓掛の城主であったといわれる。九代目の景春のとき、桶狭間の戦いに今川義元に味方して、永禄三年(一五六〇)五月二一日、戦死した。
戦後、織田信長から恩賞によって、梁田出羽守が城主となった。
その後の城主は、織田越中守、川口久助である。
川口久助は関ケ原の戦いに西軍石田三成方につき、補らわれの身となり沓懸城は廃城となった。豊明市教育委員会
駐車場にも石碑があります。
沓懸城
この城は正中二年(一三二五)近藤宗光を初代として、九代目景春の時、織田信長に謀反した鳴海城主山口左馬助に落とされて今川勢に属したという。
永禄三年(一五六〇)、桶狭間の戦に信長は、この城を攻め落とし、景春は戦死した。戦後恩賞として簗田出羽守に与えられ、城は整備された。天正三年(一五七五)、出羽守が加賀国に移った後、織田信照が継ぎ、やがて、天正五年(一五七七)川口久助が城主となる。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦に石田三成方に味方することになった久助は捕えられ、伊達政宗に身柄お預けになった。その後廃城となる。豊明市教育委員会