久留里城に設置されている案内板の内容を紹介します。
上総 久留里城
久留里城は「城成就して、三日に一度づゝ雨降ること二十一度なりしかば」(『久留里記』)という説から、別名を「雨城(うじょう)」と言います。
戦国期の十六世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(一五三二~五五)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄七年(一五六四)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちてしまいます。しかし、二年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(一五七七)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。
上総 久留里城
久留里城は「城成就(じょうじゅ)して、三日に一度づゞ雨降ること二十一度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城(うじょう)」と言います。
戦国期の十六世紀中頃、西上総地方は真里谷(まりやつ)武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(一五三二~五五)の後半になると、安房の里見義堯(よしたか)は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄七年(一五六四)、下総の国府台(こうのだい)の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちています。しかし、二年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(一五七七)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼(よしより)は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番(じょうばん)が置かれています。
天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。
以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政(ただまさ)が三万石、慶長七年(一六〇二)には、土屋忠直が二万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石(じゅがくしゃあらいはくせき)は、土屋家二代目の利直(としなお)に仕え、十八~二一歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。三代目の頼直(よりなお)の時、お家騒動が起こり、延宝七年(一六七九)、領地召し上げ、廃城となります。
約六〇年後の寛保二年(一七四二)、黒田直純(なおずみ)が三万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約一三〇年間続き、九代直養(なおなか)の時、明治維新を迎え、明治五年(一八七二)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。平成十三年六月
君津市立久留里城址資料館