備中高松城
備中高松城

[岡山県][備中] 岡山県岡山市北区高松558-2


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.21(93位)
  • 見学時間:45分(96位)
  • 攻城人数:1770(97位)

備中高松城(高松城水攻め)のパンフレット

岡山市によって作成された備中高松城(高松城水攻め)の公式パンフレットです。

提供:岡山市
提供:岡山市
播磨(兵庫県)三木城と因幡(鳥取県)の陥落によって、織田軍と毛利軍の最前線は備前と備中の国境に前進した。毛利側の防衛ライン上にあった「七城」を秀吉軍は次々と落としていったが、本城の高松城だけは攻めあぐねた。
天正10年(1582)5月、秀吉率いる軍勢三万は高松城を取り囲み、宇喜多軍なども攻め込むが、力攻めすることができなかった。そこで黒田官兵衛の進言といわれる「水攻め」にとりかかった。約2.7キロの堤防を築き、足守川の水を引き入れ、高松城を湖の孤城にしたのである。
毛利勢が手を出せないままでいる中、6月2日に本能寺の変で、織田信長が家臣明智光秀の謀反により殺害された。3日、毛利方に向かう光秀の密使を捕まえて信長の死を知った秀吉は、そのことを隠して高松城主・清水宗治の切腹を主張して講話を結ぶように説いた。6月4日、清水宗治は湖上に船を浮かべて自刃し、織田方と毛利方の和睦が成立した。
高松城水攻めビフォー
「天下布武」の旗印を掲げて全国制覇を進めていた織田信長は、天正5年(1577)から中国地方の担当武将に羽柴秀吉を当てた。その秀吉に立ちはだかったのが、西国の雄・毛利氏である。
秀吉は毛利方だった宇喜多家を味方に付け、天正8年に播磨の三木城、天正9年に因幡の鳥取城を兵糧攻めにして落城させた。
天正10年に秀吉は山陽を西進し、宇喜多家軍勢も率いて備中高松城を最前線に毛利軍と対峙した。これら中国地方の攻略は「秀吉の中国攻め」と呼ばれ、三木城と鳥取城の兵糧攻め、備中高松城での水攻めは壮絶な戦となり、中国攻めの三大攻防戦となった。
高松城水攻めアフター
天正10年6月4日、秀吉は清水宗治が湖上で切腹するのを見届けた。5日、和睦の儀式と兵糧の徴収を終えると、毛利軍の進撃があっても妨害できるように堤防を決壊させ、6日の早朝には撤退を開始した。
信長の「弔い合戦」を大義にかかげて明智光秀討伐のため、京都までの道のりを急いだ。秀吉は疾風怒とうの大返しで、織田信長を討った光秀と山崎で対峙する。この電撃的な反転を「中国大返し」という。
山崎の合戦に勝利した後は、賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手の戦い、小田原城の包囲・開城などを経て、秀吉は天下統一していくのである。秀吉にとって、備中高松城は天下人になっていく転機になった城であった
   

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