京都市文化財保護課で制作された「京都歴史散策マップ~文化財と遺跡を歩く~ 36 淀城跡」です。
淀城跡公園(よどじょうあとこうえん)
1623年、徳川秀忠の命で松平定綱によって築造が始まった淀城は、廃城となった伏見城の資材と二条城の天守が移築され、約3年をかけて三川合流地点の中島に完成しました。以降は京都守護の拠点となり、松平氏や稲葉氏など諸国の譜代大名が居城し、明治維新まで存続しました。現在は本丸・天守台の石垣と内堀の一部が残り、公園として整備されています。妙教寺(みょうきょうじ)
豊臣秀吉の側室・淀殿の産所となった淀古城跡推定地の一角に、1626年に建立された法華宗の寺院です。寺の南側にある水路は淀古城の堀跡とされ、周辺には「北城堀」など城に関する地名が残ります。1868年の鳥羽・伏見の戦いで激戦地となり、本堂には砲弾の貫通跡が残されています。
淀城跡 納所 水垂周辺の発掘調査
淀納所(のうそ)は、宇治川と桂川に挟まれた地域で「淀」の呼称は、川が合流し緩んでできた「よどみ」に由来しています。京都盆地の南の出入り口にあたり、標高が約10mと低く、盆地内の河川が全てこのあたりで合流しています。京と大坂(阪)や西国方面を繋ぐ水陸交通の要所でした。元和九年(1623)淀城が淀中島に築かれました。それ以前は、文禄三年(1594)に破却された古淀城が、旧宇治川北岸の納所辺りにありました。淀城跡の発掘調査は数多く行われ、最近では京阪電気鉄道淀駅の移転と高架化に伴う発掘調査が継続して行われ、淀城に関連する遺構が多数見つかり、当時の城の様子が明らかになってきています。城の北にあたる水垂(みずだれ)地区は、桂川右岸の流域で標高10m前後の低湿地です。1990年から発掘調査が行われ、古墳時代の多数の竪穴式住居や水田跡などが見つかりました。このため、集落跡として、地名から水垂遺跡と名付けられました。
京阪本線・淀駅をスタートに、江戸時代の淀城(現在の淀城跡公園)、秀吉時代の淀城(現在の妙教寺)などを歩いて散策するコースが載ってますので、このマップを参考にすると便利です。
マップの現物は京都市考古資料館でもらえます。