富山市郷土博物館の公式パンフレットです。
富山城ものがたり
現在、城址公園には堀や石垣が残り、ここに富山城があったことを思い出させてくれます。しかし富山城は、このように身近にありながらも、どのような姿をしていたのか、どのような歴史を経てきたのかなど、意外に知られていません。
当館の展示では、こうした富山城の築城から明治時代以降の城址のヘ変遷に至るまで、400年以上にわたる歴史を紹介します。富山城の歴史の中で、何が分かっていて、何が分かっていないのか、歴史体験「富山城ものがたり」をどうぞご観覧ください。そして、観覧の後は、博物館を飛び出して各地の文化財を訪ねてみてください。歴史体験がさらに広がることでしょう。中世
天文12年(1543)、神保長職(じんぼながもと)によって築かれた富山城。そして、富山城をめぐり繰り広げられる一向一揆(いっこういっき)勢や、上杉謙信(うえすぎけんしん)、武田信玄(たけだしんげん)ら戦国武将たちの攻防。織田信長(おだのぶなが)の家臣として入城した佐々成政(さっさなりまさ)。天正13年(1585)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の征討をうけ、破却された富山城。
中世の富山城は、築城以来、様々な勢力の争奪の場でした。近世
近世富山城を整備した前田利長(まえだとしなが)。大火で焼失した後、元和元年(1615)の一国一城令により一旦廃城。寛永16年(1639)の富山藩分藩に伴い、初代藩主前田利次(まえだとしつぐ)が入城。その後、明治時代に至るまで、富山前田家13代の居城となった富山城。江戸時代後期に建造された千歳御殿。
近世の富山城は、藩政の中心として整備が進められました。近現代
明治6年(1873)に廃城となった富山城。その後、解体と同時に新たな街並みへと変貌を遂げていった富山城跡。戦災復興のシンボルとして建設された天守閣。
富山城跡の中心市街地への変化は、富山市の近代化を象徴するものです。現在
発掘調査が進む富山城址。地面の下に眠る富山城の情報、そして新たな関連資料の発見など富山城研究の最新情報を紹介します。
富山市郷土博物館の建物(模擬天守)は、1954年(昭和29年)に富山産業大博覧会の開催を記念して建設されました。
博覧会終了後は富山城の歴史を紹介する博物館として運営されています。