富山城
富山城

[富山県][越中] 富山県富山市本丸1-62


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.88(137位)
  • 見学時間:46分(126位)
  • 攻城人数:1308(81位)

富山市郷土博物館のパンフレット

富山市郷土博物館の公式パンフレットです。

提供:富山市郷土博物館
提供:富山市郷土博物館
富山城ものがたり
 現在、城址公園には堀や石垣が残り、ここに富山城があったことを思い出させてくれます。しかし富山城は、このように身近にありながらも、どのような姿をしていたのか、どのような歴史を経てきたのかなど、意外に知られていません。
 当館の展示では、こうした富山城の築城から明治時代以降の城址のヘ変遷に至るまで、400年以上にわたる歴史を紹介します。富山城の歴史の中で、何が分かっていて、何が分かっていないのか、歴史体験「富山城ものがたり」をどうぞご観覧ください。そして、観覧の後は、博物館を飛び出して各地の文化財を訪ねてみてください。歴史体験がさらに広がることでしょう。
中世
天文12年(1543)、神保長職(じんぼながもと)によって築かれた富山城。そして、富山城をめぐり繰り広げられる一向一揆(いっこういっき)勢や、上杉謙信(うえすぎけんしん)、武田信玄(たけだしんげん)ら戦国武将たちの攻防。織田信長(おだのぶなが)の家臣として入城した佐々成政(さっさなりまさ)。天正13年(1585)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の征討をうけ、破却された富山城。
中世の富山城は、築城以来、様々な勢力の争奪の場でした。
近世
近世富山城を整備した前田利長(まえだとしなが)。大火で焼失した後、元和元年(1615)の一国一城令により一旦廃城。寛永16年(1639)の富山藩分藩に伴い、初代藩主前田利次(まえだとしつぐ)が入城。その後、明治時代に至るまで、富山前田家13代の居城となった富山城。江戸時代後期に建造された千歳御殿。
近世の富山城は、藩政の中心として整備が進められました。
近現代
明治6年(1873)に廃城となった富山城。その後、解体と同時に新たな街並みへと変貌を遂げていった富山城跡。戦災復興のシンボルとして建設された天守閣。
富山城跡の中心市街地への変化は、富山市の近代化を象徴するものです。
現在
発掘調査が進む富山城址。地面の下に眠る富山城の情報、そして新たな関連資料の発見など富山城研究の最新情報を紹介します。

富山市郷土博物館の建物(模擬天守)は、1954年(昭和29年)に富山産業大博覧会の開催を記念して建設されました。
博覧会終了後は富山城の歴史を紹介する博物館として運営されています。

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

富山城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

天地雷動 (角川文庫)

「長篠の合戦」を武田信玄の死から書き起こし克明に描く。勝頼は信玄の遺産である宿老たちを掌握できず苛立ち、家康は武田の圧力に対抗するため信長との同盟に神経をすり減らし、秀吉は信長の戦略を実現するために知恵を振り絞り奔走する。「鉄砲の三段撃ち」は武田軍が突撃してこなければ成り立たない。なぜ勝頼はそうしたのか、そこにいたる過程を様々な視点から描いていて見事だ。宮下帯刀ら戦の最前線に立つ地侍や足軽の戦いの様子も描かれている。また、長篠城、高天神城をはじめ数多くの城が登場し築城や攻城戦の様子が描かれている。

こめつぶさん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る