黒まめさん が 伊勢長島城(三重県桑名市)の城活ノートを更新しました(2024-10-02) 伊勢長島城は、長島輪中(川の中州に堤防を設けて生活の場にした木曽三川河口独特のもの)の中にあります。中州と言っても広く、中州感がありません。国道1号線沿いにある「水辺のやすらぎパーク駐車場(無料)」に車を停め、輪中の中を流れる長島川に沿った遊歩道を歩きました。長島川は長島城の堀であったとの案内板もありました。城跡とされる長島中部小学校と長島中学校のまわりをぐるりと歩いて広さを感じてみました。小学校の門から当時のままといわれるクロマツが見えましたが、体育の授業中の子どもたちがいたので、外から写真だけ撮らせてもらいました。(隣のイチョウの木にピントが合ってしまい、肝心のクロマツのピントが甘かったのでこちらに投稿…)その後、大手門が移築されているという蓮生寺へ向かいました。思っていたより小さく、ちょっとびっくりしましたが、案内板によると移築するときに少し規模を小さくしたのだそうです。小さいながらも瓦に当時の城主増山家の家紋が確認できるそうです。遺構がほとんどなく、想像力フル活動でした。長島一向一揆の壮絶な歴史の一端にも触れ、社会の教科書で見た輪中の中も経験した貴重な攻城となりました。 | |
黒まめさん が 桑名城(三重県桑名市)の城活ノートを更新しました(2024-10-02) 先人たちのコメントを見て、「七里の渡し公園暫定駐車場(障碍者用2台含め14台駐車可、無料)」に車を停めました。(カーナビに掲載されていないので迷いましたが…)桑名城では、「本田忠勝銅像」と「幡龍櫓」の2つは「絶対に見る!」と決心して、まず銅像を探しました。おなじみの甲冑を身に着けた忠勝公の傍らには長~い棒が…。なんと忠勝公愛槍の「蜻蛉切」ではないですか!めちゃくちゃ長い!人物像との対比で改めてスケール感を実感しました。銅像の横にあるマップを見て、次に本丸跡と天守台を見ようと、九華公園へと向かいました。石垣と天守替わりであった辰巳櫓は、戊辰戦争の後破壊されたので、ほとんど遺構はありませんが、揖斐川から引き込んだという水堀は当時を思い起こさせる壮大さです。水堀には亀がたくさん泳いでいました。エサをやる人がいるのか、歩くと近くへ泳ぎよってくるような気がします。堀を渡る橋にある東屋の下には、丸っこい石のようなものが見えます。甲羅干しする亀さんたちです。亀さんたちに別れを告げ、本丸跡に向かいます。本丸跡には鎮國守國神社が鎮座し、奥に天守跡があります。天守台石垣は、昭和53年に巨岩を入れて整備したそうです。やはり、戊辰戦争の後、壊されたんでしょうか。今年は暑さのため遅れている彼岸花が美しく咲いていました。天守台には登れませんのでお気をつけください。後は、「幡龍櫓だ」と探したところ、本丸周辺には見当たりません。よく見まわすと、少し離れた堤防の上に見えました。かつてはすべてが城域で、それはそれは大きく壮麗なお城だったんでしょうね。幡龍櫓は、中が資料館になっていますが、入り口がのっぺりした感じでちょっと違和感がありました。それもそのはず、水城ですから、川に向いている方が表なのです(写真)。七里の渡しへ入ってくる船からはすごい立派なお城が見えたことでしょう。遺構があまりありませんが、想像力を使って思い浮かべる夢のあるお城です。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-01) 「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録20周年記念道の駅スタンプラリーの家から一番遠いと思われる三重県北部に出没してきました。順調に6駅周って来ました。①あやま(右上) ②いが(左上) ③関宿(右中) ④菰野(左下) ここまで西から順に攻めたら、桑名城が射程距離ではないですか‼️ということで、桑名城と揖斐川・長良川の対岸の輪中の中にある伊勢長島城の2城も攻城してきました。私も狸親父さんのように、城から離れられない身体(笑)になってしまったようです。そこから戻り⑤津かわげ(中下) ⑥針T.R.S(右下)と周り、高速代をケチって京奈和自動車道で帰ってきました。「道の駅いが」は、名阪国道沿いにあるのですが、下りにあるのを知らずに行ったので、時間を無駄遣いし大失敗でした~。下調べはもっと入念にですね。もう名古屋まであと少しのところまで行ったのですが、もっとゆったり攻城しないともったいないと思い、本日は断念しました。本多忠勝公の銅像に出会えただけでも大満足ですね〜。ちなみに、「道の駅いが」の忍者写真は、もう少し撮る角度を変えると、左の忍者の刀を赤い忍者が白刃取りしているように撮れるようです。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-24) 仕事で使う川の写真を撮るため、最近は川巡りばかりです。先日は紀の川を攻めてきたので、今日は県内で収まる有田川を攻めてきました。ついでに道の駅巡りをしたら、日高川まで攻めることになってしまいました。これで、有吉佐和子の「川三部作」制覇です(笑)。川巡りをしていると、川は人々の歴史と密着してるなぁと改めて思いました。巨岩があるとお祀りし(左上、和歌山県有田川町「粟生の巌」岩倉神社御神体)、川の近くで営まれる生活などなど。川に着目したおかげで、「道の駅龍神(左下)」から日高川に架かるつり橋を渡ってすぐの皆瀬(かいせ)神社(中下)に初めてお詣りしました。龍神氏(開祖は源頼氏)が創建したと書かれていました。今回は行ってませんが、龍神氏の城「鳶ノ巣城」も遺構が残っているようです。いつか行ってみたい…。「道の駅ごまさんスカイタワー」では、車外気温19℃で、めちゃくちゃ涼しかったです。右上は、「粟生の巌」前の有田川の清流。右中はかつらぎ町花園での有田川支流の小さな流れ。いやぁ、地元でもまだまだ知らない所はあるもんですね。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-22) 集めもの大好き、何でもコレクターの黒まめです。平成の初期辺りに出回っていたテレフォンカード。今は、使える公衆電話そのものが携帯電話の普及により激減し、カードも見かけなくなりました。当時としては、かさばらず、使用頻度も高かったので、お土産や記念の品にどこへ行っても置いていたように思います。私も、お土産にいただいたり、自分の記念にしたりとコレクションした中にお城関係が5枚ありました。ド定番の「姫路城(左上)」を始め、大名庭園「岡山後楽園(左下)」、デカンショ節の郷里と銘打たれた「篠山城(右上)」最近屋島城が整備された「源平古戦場屋島(右中)」説明もいりませんねの「五稜郭(右下)」の5枚です。他のカードも眺めていると、当時の世相がわかるものや、手に入れたときの思い出が鮮明に残っているものもあり、飽きません。もう使える場面もほとんど無いですが、大切に置いとこうと思います。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-21) 今日は、隣町の有田川町まで講演を聴きに行ってきました。「歴史探偵」でお馴染みの河合敦さんが、「源氏物語の作者・紫式部と平安貴族たち」というテーマでお話してくれました。前日から和歌山入りして、地元の小学生に「新札に描かれた人物」についてのお話もされたそうです。(それも面白そう) でも、エアコン無し(おそらく町内のどこかの小学校の体育館)での講演だったようです。河合さん呼べるんだったら、そんな所にもう少しお金をかけてあげればいいのにと思いました。今日の内容は基本的なお話でしたが、とても平易でわかりやすかったです。紫式部と清少納言との対比や、「紫式部日記」についてなど、改めて「へ〜」と思うこともありました。「歴史探偵」で、せっかく喋ったのにカットされた話とか、カンペが見にくいとか裏話も飛び出し、面白かったです。今日(21日)BSフジて20時から放映される番組ではたくさん喋っている(笑)そうです。私も予約しました。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-17) 今日は、仕事で使う「紀の川」の写真が欲しくて、紀の川を上流までたどってきました。紀の川の源流は奈良県川上村の大台ヶ原にありますが、「水源地の森」として、大切に保全されているので、通常は立ち入れません。なので、とりあえず、川上村の「森と水の源流館(左上)」で学んで、写真を撮ってきました。(右側3枚) 紀の川は奈良県では吉野川と呼ばれていて、上2枚は吉野川、下の1枚は紀の川です(かつらぎ町)。そして、奈良県吉野周辺の道の駅4駅も周ってきました。途中で思い立ち、若い頃「天河伝説殺人事件」という本を読んでずっと行きたいと思っていた「天河大弁財天社(中下)」に行ってきました。ここでだけ雨が降ったので、歓迎されているのかなとちょっと嬉しかったです。せっかくここまできたのだから、攻城できるお城はないかと探し、五條市の二見城を最後に攻城して本日の旅を締めました。吉野城も攻城したかったのだけど、登り口を通り過ぎてしまったんです(泣)。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-11) 九度山町の真田ミュージアムで開かれている「真田一族ゆかりの城 第2期」に出かけるついでに、「和歌山県道の駅スタンプラリー」と「熊野古道世界遺産登録20周年記念道の駅スタンプラリー」に参加すべく、高野街道経由で「明恵ふるさと館」「あらぎの里(右上)」「しみず(右中)」に寄りながら車を走らせました。「柿の郷くどやま(左下)」では、「真田信繁の甲冑」を見て、気分を盛り上げました。真田ミュージアムの | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-10) | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-09) 熊野参詣道で最も険しい「小辺路(こへち、高野山から本宮へ至る道)」の一部、「果無(はてなし)集落」へ行ってきました。十津川温泉郷から徒歩で約1時間弱(結構キツイ上り坂)で出会った「天空の田んぼ」。周囲に見えているのは、1000m級の山々。この田を過ぎると、道は民家の縁側を通り集落を抜けて行きます。縁側を通る道が、正しく世界遺産の道です。そして、観光ガイドなどでよく見かける「世界遺産石碑」そして、その前には、バス停が…。ここまでは、別に車道もあり、狭い道ですが、車でのアクセスも可能です。バスは、月曜のみ1日2便走っています。帰りはこの車道を下り、十津川温泉で汗を流して帰りました。近くには高所恐怖症の敵「谷瀬のつり橋」もあります。日本一長い路線バス(新宮駅〜大和八木駅)も麓の十津川温泉郷を走っているので、徒歩で集落まで行かれる方はバスでのアクセスもできます。ここからだと赤木城や新宮城、鵜殿城なども攻城できると思いますが、マイカー限定です。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-07) | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-05) 「わかやま歴史物語スタンプラリー」も残す所あと5ヶ所となり、本日古座川町へと行ってきました。まずは、「紀州の妖し物語、一枚岩(左上、右上)」です。昔、岩が大好物の魔物が現れ、「虫喰岩(左下)」や「牡丹岩(中下)」など次々に食い散らかして行きました。そして一枚岩にたどり着き食べようとしたとき、一匹の犬が襲いかかり、魔物は退散しました。今も、春と夏の2回だけ一枚岩に巨大な犬の影が見えるそうです。この岩たちは全て古代の火山活動によって生まれたものです。その独特な姿から、魔物と守り犬という「妖し」伝説を生み出したのでしょう。一枚岩は川の対岸にあるので「大きいなぁ」と見るだけでしたが、今回情報を得て、近くまで行き触れてきました。(右上) そして、同じく古座川町にある若衆宿「互盟社(右中)」に行き、和歌山県内道の駅スタンプラリーも始まったので、ちょこちょこっと寄ってきました。右下は、くじらの町太地町の「道の駅たいじ」にあったくじら(イルカ?)ポストです。今日でスタンプは97/100となりました。ふ〜もうちょい。 | |
黒まめさん が 新宮城(和歌山県新宮市)の城活ノートを更新しました(2024-09-05) 新宮駅から徒歩圏内で、駐車場も2ヶ所あり、電車でも車でも難なく攻城できます。丹鶴公園駐車場からは大手に近く、城内駐車場は本丸に最も近いので、自分の目的に応じて使い分ければ良いと思います。石垣がとにかく素晴らしいので、石垣ラブの人はとても楽しく攻城できると思います。新宮駅前の観光案内所に置いてある小渕伸二氏(和城研会員)制作のA5サイズのガイドブック(500円、通販あり)はとても詳しいのでオススメです。実は、連立式天守だったということをこのガイドブックで初めて知りました。新宮城では、「石垣を堪能すること」、「城下の眺めを楽しむこと」ともう一つ「水の手曲輪で想像すること」の3つをぜひしてください。特に水の手曲輪では14代将軍家茂誕生の原動力となった、水野氏の力の源泉(経済力)が感じられるでしょうか。それから、新宮城からは少し離れていて駐車場もありませんが、新宮城とともに国史跡となっている水野家墓所にも立ち寄ってみてください。写真は、私のイチオシ、本丸御門(渡櫓跡)跡です。チラシもここの写真です。 | |
黒まめさん が 赤木城(三重県熊野市)の城活ノートを更新しました(2024-09-04) 赤木城と言えば、皆さんにとって大変攻城しづらい(アクセスしづらい)城の1つだと思います。そこで、1つの例として私がいつも通る道を紹介したいと思います。大阪方面から紀伊半島に車でアクセスする方には、選択肢の1つだと思いますので考慮してみてください。まず、和歌山県有田川町(阪和自動車道有田ICから東へ)から国道424号線を進みます。割ときれいな道です。途中で国道425号線を少し走り、県道198号線を走って、国道311号線に突き当たるとそのまま本宮へ向けて(左折)311号線を走ります。県道198号線も良い道ですが、途中カーブが多いので要注意です。本宮まで走ると国道168号線に突き当たるので新宮方面へ右折、しばらく走ると、左折し、宮井橋を渡る国道169号線に入ります。「鉱山資料館」、「道の駅 板谷九郎兵衛の里」を経由して赤木城に至ります。国道168号線をそのまままっすぐ行くと、新宮への近道ともなります。下道はしんどいという方は、田辺まで自動車道で行き、そこから国道311号線で東へ向かうのもアリです。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-08-23) 今日は、那智勝浦町、太地町を巡ってきました。古座川も行って最後に崎の湯(白浜町)で汗を流して帰る予定が、そんな余裕もなく、古座川町と崎の湯は、次回へ持ち越しとなりました。那智勝浦町は家から行くと微妙な場所で、王道の海岸線で行くのも、半島の中心を突っ切って行くのもあまり変わらないか、中心突っ切りコースの方が少し近いかも…という場所です。ということで、行きはお金のかからない中央コースで行きました。「南海の補陀落浄土」を目指して、コントロールできない小舟(右中)で捨身行に出たという「補陀洛山寺(右上)」をまず訪問。ちなみにお寺の後ろに見えている山が、勝山城(那智勝浦町)です。そこから落差日本一の「那智の滝(左上)」へ行きました。無料の駐車場が500円になるなど(その代わり置きやすくなった)の変化があったけど、どのみち歩かないと滝までたどり着かないので、しっかり歩きました。100円で護摩木も焚き上げてきました。マイナスイオンとプラスαで、いつもながらパワーを感じる場所です。次に古式捕鯨縁のスポットめぐりです。鯨踊りが奉納される鯨方縁の「三輪崎八幡神社(左下)」、鯨骨鳥居で知られる「えびす神社(中下、スポットじゃ無いけどこの鳥居は一見の価値アリ、イワシクジラの顎の骨だとか…)」を訪問しました。陸からクジラの潮吹きを見て、船団に知らせる燈明崎や梶取崎などの「山見」跡も訪問し、日本一短い(13.5m)二級河川「ぶつぶつ川」と「玉の浦(右下)」で本日は締めました。わかやま歴史物語スタンプラリーもゴールが見えてきましたが、やっぱ紀伊半島はデカいわ! | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-08-21) 先日延期した本宮、北山村、新宮方面のスタンプを集めに行ってきました。まずは、世界遺産の温泉「つぼ湯(右上)」。位置的に最初の訪問なので、入浴は諦めました。そして、「熊野本宮大社(左上)」では、大社と旧社地「大斎原(おおゆのはら)」「世界遺産センター」の3つのポイントを周りました。大社本殿は撮影禁止だったけれど、時流か参拝記念の写真はOKになっていました(SNSへのアップはダメ)。ここから、飛び地の北山村へ。「北山村観光センター(筏下りの受付)」と「骨置(こうず)神社(右中)」がスタンプポイント。護良親王と親王を守った地元の竹原氏の娘との間に生まれ、幼くして亡くなった若宮を祀ったのだそうです。ここまで来たので、赤木城(左下)へ。久々のお城です。最後は、新宮市へ向かい、「西村伊作記念館(右下)」を初訪問。自ら設計した住宅は、家具までデザインされ、タンクを利用した住宅内の水道システムや、ボイラーの熱を利用した暖房設備など、大正3年築とは思えないモダンさでした。あと、新宮城(中下)を大急ぎで攻城してスタンプゲット。徐福公園も神倉神社も再々々訪問ぐらいなので、門前でスタンプを取るという掟破りをしてしまいました(良い子のみなさんは真似しないでね。でも神倉神社の5百数十段の石段は、今日は自分的にムリだったんです〜) ここまでで今日は終了…。あと那智と太地、古座川を残しています。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-08-19) 先日、和歌山県立博物館の世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録20周年記念特別展 聖地巡礼 ―熊野と高野― 第Ⅱ期 神仏・祖師の住まう山 ―高野山上・山麓の宗教文化―伊山地の霊場と参詣道」前期のミュージアムトークへ行ってきました。今回は、空海に高野山を譲ったと伝わる丹生明神関連の物も多く展示されていました。その中で、私の住んでいる有田地方の「田殿丹生神社」出陳の木像があったのがとても興味深く、ちょっと実際に行ってきました。写真の左側がすぐ有田川ですが、昔はもっと南側(左側)を流れ、この道も含め一帯が「夏瀬の森」という鎮守の森だったそうです。「丹生」全て水銀と関連があるとは限らない、と学芸員の方はおっしゃっていましたが、ここの由緒書きでは、水銀が深く関係するということを書かれていました。昔のことを調べるのは難しいですが、想像するのはロマンがありますね。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-08-09) 「南海トラフ巨大地震注意」の報が出ました。私の住んでいる和歌山県も全域が想定震源地域になっています。今日は、本宮、北山村、新宮地域に出かけようと思っていましたが、延期しました。家は、海のすぐ近くなんですが、紀伊藩の狼煙場があった宮崎鼻という岬で守られ、今まで津波被害はほとんど無いそうです。とはいえ、情報に気をつけながら、普通に生活したいと思います。同じく、想定震源地域にお住いの方、落ち着いて生活しましょうね。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-08-07) 本州最南端の町、串本町にある大島へ行ってきました。目的はもちろん「わかやま歴史物語」のスタンプですが、「海難1890」の現場をもう一度見たかったのもあります。大島は串本節に歌われるように、昔は巡航船が通っていましたが、今は架橋され気軽に行き来できるようになりました。樫野崎には日本最古の石造り灯台(左下、1870年初点灯)が今も海路を照らしています。(灯台カードのダウンロードもできますよ。灯台マニアの方はぜひ!)エルトゥールル号の乗員たちもこの光を頼りに生存者は険しい道をよじ登ったと伝えられています。海難現場を見下ろす丘に建つトルコ記念館(中下)内の小窓からエルトゥールル号が座礁した船甲羅が間近に見えます(左上、黒い船影は窓に貼り付けられたステッカー)。更に屋上からもよく見えます。右上写真の左の周りが白く見えている所が船甲羅です。生存者の一人が自力で険しい道をよじ登り灯台守の居る官舎(右中、修復はしているが当時のまま)にたどり着き、事故を知らせたそうです。官舎まで自力で登って来た10人を含め、69人が救助されました。その後の捜索活動で見つかった遺体は、灯台近くの丘に埋葬され、慰霊碑が建っています(右下)今も5年毎に慰霊祭を行っているそうです。ちなみに、灯台と同じく1870年に竣工した官舎には、高い位置にあるコート掛け、シルクハット置き場など、設計者(灯台も)ブライトンの意匠で作られており、壁の白漆喰の上に木目を描くという手の込んだ仕上げ方をしています。無料駐車場も完備、串本駅から乗合タクシー「マグトル号」も通っています。お近くへいらっしゃったときにはぜひ立ち寄ってみてください。 | |
黒まめさん が最近のひとことを更新しました(2024-08-01) 今夏は、毎日異常な暑さですね。近くには藪化した山城が未攻城で残っているのみで、なかなか攻城できていません。とりあえず「わかやま歴史物語100」のスタンプを集めにうろちょろしています。今回は、紀北のかつらぎ町近辺です。守護畠山氏か、高野山勢力が強かった地域です。桛田荘(かせだのしょう)の宝来山神社(右上)には、文覚上人が開いたとされる灌漑用水、文覚井(もんがくゆ)の痕跡が残っています。高野七口の1つ三谷坂(勅使坂とも)の口、丹生酒殿神社(右中)、空海に高野山を譲ったと言われる丹生都比売を祀った丹生都比売神社(右下)は、「丹生」の文字からわかるように水銀鉱脈があったのではないかと思われる重要ポイントです。そして、丹生都比売神社と同じく、天野の里に残された西行の痕跡「西行堂(左上)」。ここでは、西行の妻子が暮らしたと言い伝えられ、その墓(左下)も残っています。西行堂自体は場所を移されての再建ですが、里山の風景ととてもマッチしています。ほうきやたわしなどの材料となるシュロの木が堂の横に立っていた(中下)のも印象的でした。 | |
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