河内守泰吉

河内守泰吉(かわちのかみやすきち)さん 大老 サポーター   フォロー

入団してからは攻城三昧となり、次はどこへ攻めようかと考えるのがとても楽しくて仕方ないです。恐るべし攻城団。作事と普請が好き(全部やん!)で、攻城しては写真を撮りまくっており、アップしているのは、ダイジェスト版です。

河内守泰吉さんのタイムライン

河内守泰吉

河内守泰吉さん が  沼城(岡山県岡山市)の城活ノートを更新しました(2024-11-17)

沼城の北側には、JR山陽本線、JR山陽新幹線が接するように通っておりますが、上手いこと、城域外となります。写真は、JR山陽本線と沼城西の丸です。

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河内守泰吉さん が最近のひとことを更新しました(2024-11-04)

垣根涼介さんの「涅槃 上、下」(角川文庫)を読んでいる影響で、急遽、岡山県下の宇喜多直家公ゆかりのお城を巡っています。実際にお城を訪問しますと、小説に出ていた場面を思い出したり、宇喜多直家公からパワーを貰えた気になります。皆さんも、いかがですか。写真は、宇喜多直家公が最初に城主となった乙子城(岡山市東区)主郭と案内板です。

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河内守泰吉さん が  龍の口城(岡山県岡山市)の城活ノートを更新しました(2024-11-03)

岡山藩の藩祖池田光政公の御涼所跡で、光政公は、納涼の地として何度もここに訪れましたが、領民を煩わすことのないように、ただ幕を張るだけの簡素なしつらえで過ごしました。その仁愛の誠心は歴代の藩主に受け継がれて、継政公は、宝暦七年(1757年)ここに「甘棠碑」を建てて顕彰し、さらに、光政公が愛した「花香実」の梅を城内から分植しました。城下にあります。

河内守泰吉

河内守泰吉さん が  岡山城(岡山県岡山市)の城活ノートを更新しました(2024-10-30)

岡山藩筆頭家老伊木家の下屋敷長屋門です。ご覧になってお分かり頂けるように本来、あるはずの右側の長屋がありません。しかし、表札は、今でも「伊木」さんでした。この伊木という名前でピーンと来た方は、攻城団でもかなり玄人なのではないでしょうか。岐阜県各務原市にある伊木山城を織田信長公が攻めた際に、目覚ましい軍功を挙げた配下の香川長兵衛忠次に「伊木」という名前を授け、織田軍団が拡大するのに伴い、請われて池田恒興公の麾下に入り、その後、豊臣秀吉公がその能力を買って、大名にしようとしたほどの人物でした。令和の時代にも残っているのは、素敵ですね。

河内守泰吉

河内守泰吉さん が  誉田城(兵庫県丹波市)の城活ノートを更新しました(2024-10-30)

誉田城へ攻城した際、両脇の山々に平成26年8月の丹波市豪雨災害の痕跡が見られました。案内板も立てられており、記録と伝承として、受け継いでいくとありました。

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河内守泰吉さん が  十七条城(岐阜県瑞穂市)の城活ノートを更新しました(2024-10-15)

ここに春日局の旦那である稲葉正成公の十七条藩(1万石)があったことを知り、驚くと共に、息子の代(稲葉正勝公)で累進して、小田原(8万5,000石)に転封し、しかも正勝公の弟である稲葉正定公は尾張藩に組み込まれ、十七条に居住して、重臣として千石も与えられたのも妙に納得出来ました。

河内守泰吉

河内守泰吉さん が最近のひとことを更新しました(2024-07-13)

城郭DB構築プロジェクトで、滋賀県長浜市にある小室陣屋の登録に助太刀させて頂いたところ、早速、5名もの団員に攻城頂き、とても嬉しいです。
そのことで気を良くしたので、続けて大阪府枚方市にある長尾陣屋を助太刀中です。
この長尾陣屋は、大身旗本の久貝氏の陣屋で、久貝氏は、元々、京都府長岡京市久貝の国衆で、1557年(弘治3年)に久貝正勝が遠江に赴き、今川義元に仕え、今川氏が滅んだ後は、徳川家康に仕え、正勝の子の久貝正俊は、徳川秀忠の小姓となり、上田城の攻防戦に参戦するも、秀忠と戦略で意見が合わず戦場を離脱し、1人で関ヶ原に赴き、井伊直政の陣を借りて、手柄を立てたので、上田での離脱は、お咎めなしとなりました。
1619年(元和5年)に正俊は、大阪東町奉行に就任し、河内国と山城国の境目となる河内国交野郡内に知行地を与えられました。
与えられた長尾の地は、織田信長による河内平定の際に、抗った松永秀久、門徒衆との戦いで荒れたままだったので、家臣の細谷善兵衛に命じて、近隣の農民を集め、開墾し、収穫が0だった土地を52石、最後には230石まで増やしたので、長尾の地名を、「福をもたらす岡である。」と言って、福岡に変えたほどです。
地名は、再び長尾に戻り、時が下って桜田門外ノ変の際は、吟味役に就き、関ヶ原の戦いで陣借りしたお礼にと、井伊家寄りの裁定をしたところ、後に、このことで、知行を減らされました。
波瀾万丈の久貝氏ですが、頑固ですが筋が通っていて、好感が持てますが、駿河譜代なのに徳川家康が大名にしなかった理由も何となく分かった気がしました。
陣屋跡は住宅地となり、遺構はありませんが、菩提寺の正俊寺、長岡天神から分霊を勧請した菅原神社があり、付近には薬医門を移築した圓通寺がありますので、登録されたら、ぜひ攻城してみて下さい。
写真は、菩提寺である正俊寺に移された石造十三重塔で、鎌倉時代の代物だそうです。

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今日のレビュー

イラストでサクッと理解 流れが見えてくる日本史図鑑

人を選ぶ本だと思います。
タイトル通り、流れを理解するにはいいと思います。
簡単になっている分、因果関係が短絡的になりすぎかなと思う部分もあり物足りない印象を受けますので、時系列を理解するためのとっかかりにはおすすめです。

はつみんさん)

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