大和宰相(やまとさいしょう)さん 家老   フォロー

「次世代に遺したい文化財・景観を如何に遺すか、如何に伝えるか」をテーマに活動。地元の教育委員会(当時)の方に推薦いただき城郭研究者の勉強会に参加。城郭などの文化財とその周囲の景観保護と新エネルギー(風車など)施設の共存及び環境に優しい交通機関である路面電車の利用促進という関連で取材。

大和宰相さんのタイムライン

大和宰相さん が  郡山城(奈良県大和郡山市) の写真をアップしました(2024-04-02)

「修羅引き」再現に使用「修羅」と「石」
「修羅引き」再現に使用「修羅」と「石」

郡山城天守台展望施設完成記念として2017年の「お城まつり」で再現された「修羅引き」に使用された「修羅」と「石」。

大和宰相さん が  郡山城(奈良県大和郡山市) を攻城しました(2024-04-02)

大和宰相さん が  郡山城(奈良県大和郡山市) を攻城しました(2024-03-27)

大和宰相さん が  深大寺城(東京都調布市) を攻城しました(2024-02-22)

大和宰相さん が  豊臣大坂城(大阪府大阪市) を攻城しました(2024-02-22)

大和宰相さん が  豊臣大坂城(大阪府大阪市) を攻城しました(2024-02-22)

大和宰相さん が最近のひとことを更新しました(2023-12-14)

「どうする家康」第46回大坂の陣-豊臣家に寄食していた織田信雄に土壇場で救われた片桐且元でした。且元は、豊臣家に最後に残った秀吉恩顧の大名でした。且元とその弟貞隆は、関ケ原合戦後石田三成ら豊臣家奉行衆が全滅したため徳川家康との交渉役・豊臣家領国統治を掌って豊臣家を兄弟で支えていた。且元の出世機会として知られる秀吉と柴田勝家との決戦賤ケ岳の合戦で武功を立てた「賤ケ岳の七本槍」のひとりとして近習から子飼い武将さらに大名へと取り立てられていく。秀吉子飼い家臣団の中で且元は、決して武辺一筋ではなく、むしろ方広寺大仏殿の作事奉行から街道整備や軍船調達まで兵站に関わる奉行、領国拡大に伴う検地奉行などをつとめる。その間にも秀吉の護衛や、朝鮮出兵にも出陣とマルチな働きをする。しかしながら大名への出世は遅かった。近習仲間たちから福島正則、加藤清正、加藤嘉明が早期に大名に出世し、最終的には、国持大名クラスにまで出世していく。且元は、1万石程度の大身の吏僚として留められている。このことが、秀吉死後の大坂城内での発言力の無さに繋がってしまったように感じる。確かに秀頼への取次役さらに豊臣家家老として警護役としては側近中の側近ではあったが、家康や国持大名に出世した同期生たちとでは、手持ちの軍事力の持つ発言力・政治力という分野では大きく遅れをとってしまった。本来大野治長のような若手に叱責されるような武将ではない。番組で治長に対して兄を擁護して反論していたのが、弟貞隆であるはず。大坂の陣の後の徳川政権下では、この弟貞隆の子孫が1万1千石の大名家として存続。現在も二代藩主貞昌以来続く石州流茶道家元の陣屋が我が家の裏手徒歩5分の間近にあります。                 

大和宰相さん が  大阪城(大阪府大阪市) を攻城しました(2023-11-20)

大和宰相さん が  二条城(京都府京都市) を攻城しました(2023-11-12)

大和宰相さん が  筒井城(奈良県大和郡山市) を攻城しました(2023-11-04)

大和宰相さん が  姫路城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-10-29)

大和宰相さん が  松江城(島根県松江市) の写真をアップしました(2023-10-15)

松江城天守を南西側から望む
松江城天守を南西側から望む

普請の名手と言われた堀尾吉晴が心血を注いで築城した松江城天守を南西側から望む。

大和宰相さん が  松江城(島根県松江市) の写真をアップしました(2023-10-15)

大手口に設けられた馬溜の中から二の丸太鼓櫓を望む
大手口に設けられた馬溜の中から二の丸太鼓櫓を望む

一辺が46mの馬溜が敵軍からの防御の際には、写真正面の二の丸や右側にあった大手門からの攻撃により敵軍の勢いを削ぐ働きを持った。また、城兵の反撃の際には待機場所となった。

大和宰相さん が  松江城(島根県松江市) の写真をアップしました(2023-10-15)

大手口に設けられた馬溜の案内板
大手口に設けられた馬溜の案内板

この馬溜は、大手口から侵入する敵軍に城方が大手門と二の丸上段の櫓から攻撃できる一辺が46mある桝形となる。

大和宰相さん が  備中松山城(岡山県高梁市) の写真をアップしました(2023-10-10)

大手門跡へと続く階段とバックの石塁
大手門跡へと続く階段とバックの石塁

備中松山城の攻城の困難さを物語る石垣

大和宰相さん が  備中松山城(岡山県高梁市) の写真をアップしました(2023-10-10)

天守から本丸、二の丸を見る
天守から本丸、二の丸を見る

天守櫓から見た本丸、二の丸。

大和宰相さん が  備中松山城(岡山県高梁市) の写真をアップしました(2023-10-10)

天守櫓と五の平櫓、六の平櫓
天守櫓と五の平櫓、六の平櫓

二の丸から本丸櫓群を望む。

大和宰相さん が 書籍秀吉の接待: 毛利輝元上洛日記を読み解く (読みなおす日本史)」にレビューを投稿しました(2023-09-30)

「秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く」 は、大河ドラマ「どうする家康」の現在の時代は1582年(天正10年)本能寺の変から家康上洛から北条氏を降し天下統一を遂げる頃ですが、毛利輝元の上洛は、1588年(天正16年)7月から9月にかけてです。本書は、初めて上洛した輝元の家臣平佐就言(ひらさなりこと)が近侍としての見聞や主君に確認しつつ書き止めていたであろう日記を元に当時の天正期の豊臣政権の実像に迫っている。関白秀吉やその弟大納言秀長が代わる代わる輝元を宴席や茶会に招いている。それ以外に黒田官兵衛ら重臣達にも手配して挨拶回りの案内や取次の気遣い、茶会や能鑑賞、名所旧跡巡り、酒肴の差入れなど緊張緩和の気配りを含めた接待の様子を伝える。さらに輝元が用意した銀子・銭・馬・太刀という贈答品の数々はさすが中国地方の大大名である。それを可能な限り整理しての可視化を目指しています。本書による贈答に使用された銀子の記載を確認すると、6,238枚をくだらない。銀1枚=銀10両=43匁。1匁=3.75gとすると少なくとも約1トンの銀が配られたことになる。石見銀山からの莫大な収入を予感させる。政治、経済、鉱物資源、儀礼格式という色々な分野に興味を広げていただける内容でした。

大和宰相さん が  英賀城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-09-19)

大和宰相さん が  国府山城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-09-19)

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今日のレビュー

超約版 家康名語録

サイン本の企画で当選して、楽しく読ませてもらっています。家康の環境が段々と変化していくに連れて名言としてもより変化が感じられ、今まで知らなかった事がたくさんありました!
何より現代においての名言の活用内容なども書かれており、ただの歴史本と言うだけではない本でした

御城印好きさん)

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