なべ

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中部地方を中心にマイカー(ハスラー)で、城攻め中です。
1年間で走行距離が27000kmを越えました。
2年間で45000kmを越えました。最近は(列車+レンタカー)が増えました。
3年間で64000kmを越えました。絶好調です。
4年間で81000kmを越えました。最近はガイドしていただく攻城が増えました。
(令和6年6月1日追記)

なべさんのタイムライン

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-02)

今日は吉田城跡(豊橋市)に行って来ました😀
豊川側にある北多門の石垣の発掘調査現地説明会に参加です。
(右上写真)は石垣と裏込め石です。(右中写真)は刻印石「加藤清正など」。(左下写真)は裏込め石に混ざっていたブロックとコンクリート片です。(下中写真)は幾度かの石垣積み直しにより割れた築石。
(右下写真)は以前、発掘調査されたのちに修復された千貫櫓
遠景写真は土塁状遺構、本丸地山土の上に本丸造成土の層があります。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-01)

今日は伏見城、指月伏見城跡、向島城跡に行って来ました。
桃山御陵前駅から御香宮神社に寄りました。入口は伏見城から移設した大手門(右中写真)です。さらに敷地内には伏見城にあった石垣が積まれてありました(右下写真)
治部少丸、三の丸の堀(今は道路)には残った石垣が点々と置かれていました(下中写真)
(下左写真)は松の丸と角馬出に架かる土橋です。
遠景写真は本丸付近にある明治天皇 桃山陵、(右上写真)は陵墓から見た京都方面です。
規模の大きさに驚きました😵

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なべさん の読者投稿欄「日本100名城・続日本100名城に未選定のお城で、あなたがぜひ訪れてほしいと推薦したいお城を教えてください(最大5城まで)」への回答が公開されました(2024-11-01)

私の住んでいる岐阜県(美濃・飛騨)から次の5城を推薦します。いずれも国史跡手続き中です。歴史的な価値があり、数々の素晴らしい遺跡が残る山城跡です。
①菩提寺山城
②大桑城
③篠脇城
④飛騨松倉城
⑤明知城
・写真は調査中の菩提寺山城の伝台所

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-31)

今日は小牧山城と長久手古戦場に行って来ました。
小牧山城の大手道からの岩盤上に築かれた石垣が当時を連想させるものでした(遠景写真)。まだ、数か所が整備中で小牧山全体が石垣のようです😃
(右上写真)は中央に岩崎城が見えます。(右中写真)は矢穴が残る巨石ですが、名古屋城に利用される予定だったとか。(左下写真)は長久手古戦場にある池田恒興の勝入塚(しょうにゅうづか)、(下中写真)は家康が陣を張った色金山にある床机石(しょうぎいし)、(右下写真)は軍議の時に床机石に腰掛けた様子。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-29)

今日は大桑城跡(岐阜県山県市)に行って来ました。3回目の訪城です😃
古城山中腹にあるはじかみコース(右上写真)からの登城です。(右中写真)は伝猿馬場付近にある尾根を切った堀切ではないかと思います。伝猿馬場付近には土塁跡(右下写真)と見られる地形がありました。(下中写真)は伝台所の池があったと思われるくぼ地状の地表面にあった小石です。(左下写真)は主郭の上、山頂を表示した案内板「古城山(金鶏山)407m」
美濃守護土岐氏の最期の居城です😁

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-23)

今日は若狭武田氏の後瀬山城跡に行って来ました。「ふくい山城プロジェクト」に参加させていただきました☺
JR小浜駅から登城口まで歩きました。(右上写真)はその途中に見えた後瀬山(標高168m、比高160m)です。
登城口から急階段を上がり、連郭群手前を守護館跡方向に下りる尾根には堀切と土橋(右中写真)で防御されていました。(左下写真)は本丸にある説明板です。(下中写真)は本丸にある丹羽長秀による改修と思われる石垣です。(右下写真)は発掘調査で礎石建物があったと思われる土塁で囲まれた二の丸「山上御殿」です。(遠景写真)は二の丸から見た日本海です。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-17)

今日(9/15)は丹波の福知山城跡に行って来ました。私は美濃に住んでいますので、大河ドラマ「麒麟がくる」が城巡りのきっかけでした。憧れの光秀の居城です。😁
城の麓の駐車場からの登城です(右上写真)天主台の転用石(右中、下写真、)は驚きですね😚写真ではわかりづらいですが、(遠景写真)の左側が明らかに増築した石垣でした。光秀以後の増築だそうです。転用石はないように見えました☺(下中写真)は天守から見た南方向です。また、歴代城主の中に朽木氏がありました。
(左下写真)は福知山城の前に訪城した隣国丹後の細川藤孝(幽斎)の田辺城跡です。城内の紹介ビデオにも光秀が「藤孝はまだか」との関係の深さを感じました。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-15)

今日(9月11日)は若狭の砕導山(さいちやま)城跡に行って来ました。「ふくい山城巡りプロジェクト」に参加させていただきました。
麓の佐伎治(さきち)神社(右上写真)から登城です😃
戦国時代の若狭最大の山城で5つ曲輪と堀切、切岸、土橋から構成されていました。まずは天王山曲輪(右下写真)、大きな堀切、切岸(右中写真)を経由し、本丸と思われる千丈ケ嶽(せんじょうがだけ)曲輪、愛宕宮曲輪、妙見宮曲輪を経て佐伎治曲輪(左下写真)と逸見昌経が朝倉・武田連合軍と戦うために築いた城です😄
曲輪間は自然地形に近く、山全体に曲輪が築かれ、各尾根を堀切(二重堀切)で防御した山城でした。
遠景写真は曲輪から見た逸見昌経がその後、築いた高浜城跡です。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-11)

今日は9月初めに名鉄布袋駅の近くに設置された「信長と吉乃」の像を見に行ってきました。(右上、右下写真)がその像です。野面積みの台座にある説明板には3人の子どもは信忠、信雄、五徳とありますが、信忠、五徳については諸説ありとのこと。吉乃の生まれた生駒氏は小折城(生駒屋敷)の城主で、犬山城主であった織田信康(信長の叔父)の家臣だったそうです😳
また、吉乃という名前は後世に書かれた「武功夜話」にあり、ドラマにも登場しますが、生駒家ではこの像から1km位の場所にあったが、2022年に取壊された生駒家菩提寺の久昌寺に残る墓にある久菴桂昌(きゅうあんけいしょう)と呼ばれているそうです。
いろんな意味で、このモニュメントは吉乃の地元の理想する信長像ですね😚
(左写真)は安土駅にある信長像です。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-02)

今日は犬山市にある瑞泉寺(右上写真、本堂)に行って来ました。
この寺にある門(中央写真)が元あった兼山(美濃金山)城跡二の丸に戻されるという情報があり、見学して来ました。あわせて、犬山城の内田門(搦手口)から移設された瑞泉寺の山号の青龍山の額がある山門(右下、左下写真)も見て来ました😄
(左上写真)は右中ほど遠方に犬山城、左に移設された内田門です。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-07-17)

今日は明石城跡に行って来ました。
JR明石駅から数分歩いて太鼓門口(右上写真)から入りました☺
東ノ丸曲輪の角櫓(右中写真)から明石大橋が見えました😀
さらに二の丸曲輪を経由して本丸の巽(たつみ)櫓(右下写真)と坤(ひつじさる)櫓(左下写真)の三重櫓を見学しました。(下中写真)は天守が建つことのなかった天守台です。
遠景写真は三の丸から見た巽、坤櫓です。慶長2年の一国一城令以降の元和5年に徳川幕府による築城とのことです。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-07-02)

今日は片岡城(奈良県上牧町)に行って来ました。
午前中にJR畠田駅から歩き、昔の街道を10分ほど歩くと片岡城のあった標高92mの丘陵地(左下写真)が見えて来ました。先に進むと城跡の入口(右上写真)に到着しました。さらに進むと搦手口(右中写真)に到着、登城道がよく整備されていました。階段を登ると主郭(右下写真)に到着です。
午後からは上牧町主催の歴史講座に参加、遠景写真はその時に紹介された上空から見た片岡城跡です。(SNS利用OKとのこと)
築城した片岡氏は春日白人神人で、松永久秀に攻められ落城し、その後、信長軍に対応するため、久秀により改修されたとのこと。しかし、信長軍(光秀、順慶)に攻められ、落城したそうです。遠景写真を見てわかるようにすぐ近くまで住宅地となっており、よく残ったものだと感心しました。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-06-07)

今日は鯰江城跡(東近江市)に行って来ました。
愛知川の河岸段丘を切岸とし、家来屋敷が土塁(右中、右下写真)で囲まれた群郭式となっています。
(右上写真)は浄水場建設時に発見された暗渠の石組みです。(左下写真)は専修院にある鯰江氏の前にこの地に居館を築いた地元土豪の森氏歴代城主の五輪塔です。(左下写真)は三箇所の遠見櫓があった雑木林です。
(遠景写真)は河岸段丘面にある鯰江城址の石碑と説明板です。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-06-02)

今日は菩提山城跡(岩手城跡)に行って来ました。観光駐車場に車をおいて、竹中半兵衛のお墓のある禅憧寺奥の八幡神社(右上写真)が大手道の登城口です。約1時間ほどで本曲輪に到着しました。
(右中写真)は台所曲輪にある巨石です。発掘調査が始まるそうです。(左下写真)は西曲輪にある竪堀です。(右下写真)は三の曲輪と出曲輪の間にある堀切です。(下中写真)は出曲輪の先にある畝状竪堀です。岩手氏時代の岩手城を竹中半兵衛が改修した菩提山城の時代の違いがよく分かる興味深い山城です。
今日、6月第一日曜日は竹中半兵衛の慰霊祭が行われていました。

なべ

なべさん がプロフィールを更新しました(2024-06-01)

中部地方を中心にマイカー(ハスラー)で、城攻め中です。
1年間で走行距離が27000kmを越えました。
2年間で45000kmを越えました。最近は(列車+レンタカー)が増えました。
3年間で64000kmを越えました。絶好調です。
4年間で81000kmを越えました。最近はガイドしていただく攻城が増えました。
(令和6年6月1日追記)

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なべさん の読者投稿欄「お城にハマり出した頃の自分に、今の自分が声をかけられるとしたら何と声をかけますか?」への回答が公開されました(2024-06-01)

退職した翌年2020年9月に訪れた苗木城跡から私のお城巡りが始まりました。
その頃の自分にあったら「いい趣味を見つけたね」と一言。続けて
「攻城団に入りなさい。城跡巡りノウハウが一杯あり、モチベーション向上につながるよ。」
「各地の城跡を訪れていると、同じ仲間との出会いがあり、日常生活に張り合いが出るよ。」
「ゆっくりでいいよ。城跡巡りは健康な身体と心を維持するシニアライフワークになるよ。」
と声をかけたいと思います。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-26)

今日は田上山砦に行って来ました。
JR木之本駅から見た(遠景写真)は敦賀方向です。右手山が田上山(323m)です。まさに北国街道を見下ろす位置です。木之本駅から今も雰囲気を残す北国街道の木之本宿(右上写真)を歩きました。意冨布良(おおふら)神社の奥にある「田上山登り口」から登城道です。途中、琵琶湖方向に一ヶ月前に攻城した山本山と木之本の街(右下写真)が良く見えました。30分ほどで南郭に到着しました。すぐ隣の主郭(下中写真)にはいくつかの椅子?がありました。その後、賤ヶ岳方向に土塁が築かれた西郭(左下写真)に行きました。残念ながら麓の北国街道や賤ヶ岳方向は樹木のため良く見えませんでした。
木之本は北国街道と中山道からの北国脇往還また、琵琶湖西の若狭街道が合流する重要な拠点であることがよくわかりました。柴田勝家の玄蕃尾城にひけをとらない秀吉が秀長に築かせた本陣らしいものでした。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-19)

今日は明知城跡(白鷹城跡)に行って来ました。「麒麟がくる」以来、3年半ぶりです。
今日は稲荷神社登城口(右上写真)です。すぐに延々と続く土塁(右中写真)です。さらに進むと各曲輪を取り囲む横堀と畝状竪堀群(遠景写真)です。草木が刈ってあり、見事な竪堀と横堀を見ることができます。出丸入口には巨石列?(右下写真)がありました。出丸の中には24cmの穴(下中写真)のある巨石があります。二の丸には貯水池(左下写真)がありました。
鎌倉時代から続く遠山明知氏の見事な土の城ですが、戦国時代には武田と織田の攻防の拠点となり、改修されたと思われます。現在、国史跡登録を目指しているそうです。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-11)

今日は平泉寺城跡に行って来ました。
目的は南谷坊院の石垣に残る矢穴跡(下中写真)と本社前の巨石石垣(遠景写真)です。菩提林を通り、途中、牛岩・馬岩(右上写真)を見学し、無料の市営駐車場(環境協力金300円?)に車を止めました。まず、歴史探遊館まほろばを見学し、散策マップを入手しました。(右中写真)は元小学校の前にあった平泉寺の石柱碑です。南谷三千六百坊、北谷二千四百坊、あわせて六千坊の「宗教都市」だそうです。(右下写真)は南谷坊院跡の石垣と石畳です。(左下写真)は南谷坊院を囲む石畳と堀です。これらの技術は一乗谷朝倉氏遺跡に引き継がれたのかも。さらに岐阜城の信長居館にある巨石列、土岐氏の大桑城の岩門につながっているかもと時代の流れを妄想しました。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-04)

今日は名古屋城に行って来ました。西南隅櫓の特別公開が5月6日までと知り、行って来ました。
正門から入り、すぐに西南隅櫓(右上写真)です。西南からの豊臣監視の隅櫓です。西、南の堀側に石落しがあります。また、西側は千鳥破風が、南側は軒唐破風の上に千鳥破風が設けられています。二重三階の構造です。
江戸時代に名古屋城には11基の隅櫓があったそうですが、現在は3基(西南、東南、西北)が現存してるそうです。西南隅櫓は江戸時代には「未申(ひつじさる隅櫓)」と呼ばれていたそうです。
表二の門から入りますが、空堀(右中写真)には鹿が二頭いました。枡形虎口を抜け西に向かうと西南隅櫓の説明板(右下写真)がありました。(下中写真)は3階から本丸を見たところです。(左下写真)は御窓台だそうですが、この台に上がって敵を監視したそうです。
(遠景写真)は正門側から見た本丸と西南隅櫓、堀の位置関係です。

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今日のレビュー

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)

いまでも定期的に読み返す一冊。たまたま見かけたこの本のおかげで攻城団にマンガという武器が加わったと思うと感慨深いです。攻城団で発表した作品を収録した続刊も出版したいと思ってます。

こうの)

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