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走る歴女です。

ぐこさんのタイムライン

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-21)

今日は三河忩劇の一つ雨山合戦の舞台・雨山城に行ってから、シナモンロール城こと古宮城の周辺・作手の未攻城のお城を巡ってきました☺️

雨山城はまさに雨山砦という感じで小ぶりでしたが、南側はとても急峻でがれ場でした。先鋒の菅沼兄弟が討死してしまうのも頷けました。臨場感を味わいたい方は遠くて緩やかなコースでなくて、近くてちょっとキツいコース(写真)を選んでみてください😅
織田VS今川のこの合戦ですが、長篠設楽原合戦での長篠籠城組がこの時の織田方、鳶ヶ巣山奇襲隊がこの時の今川方メンバー(ほぼ)なので
(境目の国衆は大変やなあ💦)と感じました。

雨山城の後、三河一ノ宮の砥鹿神社奥宮へ立ち寄ったら、富士山崇拝所から富士山の頭が見えました👍私は愛知県から富士山を見たのは初めてだったのでとても感激でした🤩
その後に来た見ず知らずの人達にも、
(見えますよー❗️)とか言ってしまいました💦
作手の方も、あちらこちらで紅葉がちょうど見頃で、気候も爽やかだしとてもステキでした💕

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-17)

今日はお父さんと関ヶ原古戦場や壬申の乱古戦場を巡ってきました☺️私は団員になってからも数回巡っているのですが、今日は道中合戦について語りまくりでした😅

進みつつある紅葉がキレイでした。

ブラタモリ関ヶ原で出てきた所もまわりました☺️
写真は、関ヶ原合戦で大谷吉継が緒戦、地形を巧みに利用した、関の藤川を見下ろした所。
東西を結ぶ中山道を断ち切るように流れる川は天然の堀、兵数を絞る橋を上手く使い、善戦したとされます。また、関所を囲む古くからの土塁も活用していたとのことです。
最後は関ヶ原古戦場記念館に寄り、シアターも見て帰りました。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-15)

今日は愛知県豊田市の北東部のお城、西広瀬城、東広瀬城、川口城、御作城に行ってきました。紅葉もちらほら🍁見れました☺️
豊田市というと三河、のイメージですが北東部の今日行ったお城は織田領、水野領、松平領など‥‥せめぎ合ってる地域のようでした。
東広瀬城は松平元康が初陣で落とした五城の一つみたいです。
西広瀬城と東広瀬城は同じ城主かな、とか勝手に思っていましたが、川を二本挟んでるとはいえ少ししか離れていないこの2城は別々の城主で、時に織田方VS松平方など、対立することが多かったみたいです。
(今もなんだか仲悪いんだ)と西の方の近所の方が教えてくださりました😅
ロミオとジュリエット豊田版を考えながら帰りました😅
写真は御作城登城道で見かけたゴリラみたいな岩。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-08)

今日は設楽原周辺の未攻城のお城、まだ行ってない合戦の陣所を巡ってきました。それから雁峰山の鳥居強右衛門狼煙場・涼み松(写真)にも登ってきました☺️
涼み松の狼煙場は岡崎城に救援依頼した後、(援軍来る!)の朗報を伝える為の狼煙を上げた所だそうで、小さな削平地状になっていて、木々がなければ眺望があった感じでした。
(狼煙で援軍の事を知らせれたのだから、ミッションクリアなのに。もうここで昼寝とかしたらよかったのになあ、強右衛門さん)と思ってしまいました。

雁峰山に登った後、欠下城を目指していたら、川上公会堂前に
(鳥居強右衛門と鈴木金七郎の長篠城〜岡崎城へのルート)のキレイな案内板がありました。
二人は長篠城から脱出し、雁峰山の(涼み松)でない別の狼煙場(のたば)から(脱出成功)の狼煙をあげ、その後岡崎城まで走ったとのこと。
強右衛門は翌日一人で長篠城を目指して戻り、金七郎は織田軍の嚮導をしつつ戻り帰農したとされる、と書かれてありました。
今度はこっちの狼煙場経由で岡崎城まで走らなあかんかな💨
朝は寒かったけど、だんだんと寒さが緩んで気持ち良い散策となりました。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-03)

今日は全日本駅伝のスタートを観に行った後(中継に映ってたみたい😅)
テレビ観戦しようと思っていましたが、あまりの空の青さに攻城心が湧いて、豊田市の小渡城に行ってきました。
愛知県には畝状竪堀があるお城が少なく、でもここは未発達の遺構があるとのことでしたが、土饅頭状阻塞という感じで可愛かったです。
風があったので城趾山麓の風鈴寺から風鈴の音がよく聞こえていました🎵

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-30)

秋の名古屋城天守
渋柿、やっぱり渋いんかなーって
見つめてます☺️

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ぐこさん が  土山城(滋賀県甲賀市)の城活ノートを更新しました(2024-10-29)

(34.938885, 136.286758)に城趾碑と案内板、道標があります。道標にしたがって民家の間の細道を登城すると、大きな案内板が現れます。
大きな案内板からしばらくは少し薮になっていますが、角馬出状虎口空間のⅤ郭あたりからは程よく整備され、散策しやすいです。ここまでほとんど登ることもありません。
主郭の高い土塁や切岸といった甲賀のお城の特徴に、主郭南側の馬出し、北側の二重堀切
の遺構も見ることができ、楽しめます。
旧東海道土山宿などの周辺スポットも良いですが、鈴鹿峠の悪鬼を討伐した坂上田村麻呂が祀られた田村神社が立派でオススメです。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-27)

今日はおばあちゃんの畑を手伝い、芋や果物を収穫しすぎたので、行って戻れる未攻城の沢城(神戸城の前身、城趾碑のみです)へ行ってきました。
行く前に
(なんか寄り道できるとこあるかなー?)と聞くと
(伊勢の一ノ宮の都波岐神社は行ったことあるかー?)
と言われたので帰りに寄ってきました。小さな神社ですが、花手水もかわいく、気分良くなりました🌸
織田信長の北伊勢侵攻で神戸・高岡の二城を攻略した際には社殿が焼失したけれど、江戸時代の初め神戸城主一柳監物によって再建されたのこと。信長さん、よく焼いてますね‥‥。
神戸城や、特に高岡城からは近いです👍

鈴鹿山麓にスポーツ選手や芸能人も来られる、大きな椿大社があり、そちらが一ノ宮と思っていましたが、伊勢国は一ノ宮を称する神社が二社あるみたいです。伊勢神宮は別格なんですねえ☺️勉強になりました。

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ぐこさん が  黒川氏城(滋賀県甲賀市)の城活ノートを更新しました(2024-10-25)

うぐい川公園から東へ道路を渡ると橋の南側に案内板があります。
案内板の向かいの防獣柵とそこから突き当たりの防獣柵を二つ開閉して、大手道の道標がある箇所から城山へ入ります。
城域は(登城ルート→)の道標がありますが、複雑な縄張りで広大なので、縄張り図の持参をオススメします。
お城は北側が段郭になった方形の屋敷跡で、南側が地形を利用し、横堀や堀切、帯曲輪を多用した主要部になっている感じです。
主要部では苔むした石垣や石段の遺構を見ることができ、とても雰囲気があります。
湿度の高い日でしたが、10月下旬でもヤマビルがたくさんおり、毒ヘビ、オスのシカを見かけました。もう少し寒い時期の攻城をオススメします。
冬季以外は、登山スタイルより、デニムや綿パン➕ヤマビル対策の格好が良いかと思います。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-23)

今日は滋賀県の黒川氏城、土山城などに行ってきました。これまで甲賀郡の単郭方形のお城をいくつか訪れたことがありましたが、黒川氏城や土山城は規模も大きく、複雑な防御遺構で、
(甲賀53家の豪族のお城とちゃうやん!)と突っ込みたくなりました。
それもそのはずで、黒川氏城は織田軍の北伊勢攻略などで陣城に改修、土山城の方は小牧長久手合戦の秀吉本陣になっていた可能性があるみたいです。
特に黒川氏城は苔ムシムシの雁木まであって素晴らしくて感激しましたが、ヤマカガシ(毒蛇)を数匹見かけましたし、山ビルも多かったです。このあたりは、もう少し冬季に攻城したほうがよいお城かもしれないですね。
黒川氏城から見下ろした鮎川千本桜の紅葉?がステキでした。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-20)

今日はお父さんと大給城、松平郷(松平城)未登録の細川城(なぜかリクエストされる)に行ってきました。昨晩から秋の空気に入れ替わって清々しかったです。
団員になった初期に大給城、松平城は攻城していますが、少しは見る目が養われてより楽しめました。
このところ岡崎の山奥のお城などを回ってきて、小さなお城が小牧長久手合戦前の改修を受けているのを見ました。

今日大給城主郭へ登ってみると名古屋駅どころか、伊勢湾まで見渡すことができちゃう💦誰か見張りの人を常時置いたり‥‥の軍事拠点になりそうだし、重きを置いて改修されてそうな訳もわかる〜。
ミステリアスな水の手曲輪も、昨日愛知県は雨が夜降ったのに、ちっとも溜まっていないから、ロックフィルダムじゃなくて谷筋からの防御遺構なのかなー、と思えました。

細川城(御前田)は城趾碑とすこしの土塁?だけです(写真)承久の乱後足利義季が額田郡細川荘に移住し、細川氏の始祖になったそうで、四代頼春の子供の子孫が藤孝、忠興なんだそうです。

いつも大体駅から走って攻城していますが、今日はクルマだったので、道の駅に寄って、めっちゃ野菜や美味しそうなものなど買いました🥦いいですね👍

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ぐこさん が  日近城(愛知県岡崎市)の城活ノートを更新しました(2024-10-18)

城山山麓の広祥院から攻城しようとしていると、ご住職さんが出てこられ、広祥院のパンフレットと日近城趾見取り図を下さりました。
見取り図の❌のところが土砂崩れのため、おふうさんのお墓のところから城趾に登り、下りは見晴台(物見か?)にも寄るのがオススメだということでした。ただ見晴台より下は急坂でした。
主郭までは直では5分ほどで行けますが、主郭に至るまでの防御の遺構が面白く、じっくり楽しめます。
小ぶりなお城ですが虎口、堀切、横堀、竪土塁などとその配置が面白いです。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-17)

今日は岡崎市の日近城に行ってきました。
奥平氏の傍系、日近奥平氏の小ぶりなお城です。長篠設楽原合戦前の悲劇の人奥平信昌の最初の奥さん、おふうさんのお父さん・奥平貞友さんも城主。
三河忩劇の一つ・日近合戦が行われた際と、本家の支配下になってから徳川方として小牧長久手合戦前に改修されていて、所々に補強の石積みがあったり、虎口や横堀、竪土塁などのフォーメーションが技巧的で面白かったです👍
お城は長篠城風に川に挟まれているフォーメーションで、乙川の川縁を散策しましたが、すごくステキでした💓(写真)
お城が周りにないのでお寺を見つけたら入ったり、霊水を見つけたら飲んだり‥‥チンタラ帰りました☺️今まで聞いたことなかった滝脇松平家、麻生松平家の菩提寺とかがありました🫢

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ぐこさん が  滝山城(愛知県岡崎市)の城活ノートを更新しました(2024-10-12)

宮崎神社裏、明見集会所前から防獣柵を開閉し登城しました。すぐ右手の尾根道を急登します。
城趾碑のある南の曲輪(本城峠)までは明瞭な登城道がなく、登りは軍手、下りはストックなどがあると良いです。
南の曲輪から多少のアップダウンを伴って奥の峰、東の峰とほぼ自然地形のような曲輪が続き、その先に明瞭な二重堀切があります。その先にも広い尾根道や広い山頂が続きますが、堀切あたりまでが城域とされているようです。
南山麓には滝山合戦で武田軍が布陣した万足平などの合戦史跡もあります。万足平は長い猪垣が見事で一見の価値があります。
県道沿いにも別名の亀穴城趾の城趾碑があります。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-11)

今日は愛知県岡崎市の暫定登録の滝山城に行ってきました。ありがとうございます!
このお城周辺で行われた(滝山合戦)は、長篠・設楽原合戦の因縁のきっかけとも言える戦いです。
武田信玄死後に奥平一族は、武田に残る一族と武田を裏切って徳川についた一族(奥平貞能・信昌など)に分裂します。これはお家を残す作戦とも考えられるそうですけど‥
武田を裏切った奥平貞能らは、人質を残して作手から脱出、滝山城を目指します。
奥平貞能は手勢200で滝山城に入りますが、素早く武田軍5000が城の南麓に布陣します。

武田軍は滝山城を攻めるも、城は険しく攻めあぐねるうち(本多広孝・康重父子、深溝松平など)徳川軍の援軍が到着。武田軍は撤退します。
奥平貞能は武田軍を追撃、武田軍にたくさんの戦死者を出したとのことです。武田方の殿は武田方についだ同族だったそうですが💦

お城はとてもかっこいい二重の堀切があるけれど、明確な曲輪がない感じ
(軍道に時々阻塞があるみたい‥コレ、お城っていうんかな)と言う感想です。そんな感じで城域もよくわからなく、広範囲をウロついてしまいました💦
険しい山容と徳川軍の後詰がすぐ来てくれたから良かったけれど、長居できるお城でなかったとおもいます。
けど、武田軍が布陣した山麓も含め、臨場感を味わいとても楽しかったです。
貞能の子信昌は、家康の子亀姫を迎え、さらに長篠城が与えられ、長篠設楽原の戦いへとつながります。そののち新城城を得て徳川譜代大名の一角を占めることになっていきます。

滝山城の城域は黒雲母のキラキラ片岩がたくさん見られましたが、この辺りの鹿垣や寺社の石垣は整層積みって言うんでしょうか、とてもかっこよかったです。
写真は城趾近くの天恩寺。大きい看板をみてぶらりと寄ったのですが、家康さんが長篠・設楽原合戦前に戦勝祈願したそうですし、山門と佛舎が室町時代の足利義満建立でビビりました。石垣も江戸初期のものだそうです。

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ぐこさん が  細野城(三重県津市)の城活ノートを更新しました(2024-10-04)

国道163号沿いの南口(34.739564, 136.365782)から登城しました。長野氏城跡の道標と案内板があります。
ここより谷を進みます。右手の山上が東の城、左手の山上が中の城です。
まず東の城の道標が出てきますので登っていきました。二段ケーキ状のシンプルなお城です。
谷に戻りさらに奥へ進み、道標に従い中の城へ登ります。ダイナミックな堀切と高い土塁が見られます。
また谷に戻り薮を進み登ると西の城ですが、防獣綱が掛かっている箇所が多く、入っていくのが躊躇われ、主郭は見上げ、帯曲輪までの攻城としました。
小ぶりなそれぞれの城は堀切や谷で分断されていて、独立している感じです。
中の城にあったマップを見ると他にも四箇所の登城口があるようでしたが、城域全体倒木、薮も多く、南口がベターかと思います。谷間はかなり足元が悪いのできをつけてください。

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ぐこさん が  長野城(三重県津市)の城活ノートを更新しました(2024-10-03)

伊賀街道・国道163号線から桂畑文化センターを目指します。長野城まで4.2キロの道標があります。
文化センターから桂畑川沿いに瀬戸林道を進みます。途中大きな落石がありましたが、バートウォッチングの方などは普通車で来られていました。
川沿いの瀬戸林道と分岐して林道高狭ケ野線
を登ります。車両通行禁止の柵があり、かなり落石、倒木が多かったです(長野城まで2.4キロの道標あり)。林道は簡易トイレのある城趾の北西に至ります。
城趾は小ぶりで主郭に帯曲輪が取り巻き、低土塁や堀切が見られます。周囲は急斜面で、とても眺望がよく、伊勢湾まで望めます。
帰りは東に伸びる山道を下り、中野集落に下山しました。
城趾は整備されていますし、往復林道であれば気軽ですが、距離が長く標高が高いので、飲食物、獣対策が必要と思います。
下山した後に美里ふるさと資料館で縄張り図付きのパンフレットなど情報をいただいたので、先に寄るとよかったです。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-02)

今日は早朝畑を手伝った後、津市の長野城、長野氏城へ行ってきました。
源頼朝の御家人・工藤祐経の子孫が伊勢の長野に住んで長野工藤氏を名乗ったのが伊勢の長野氏の始まりだそうです。
戦国時代、北畠具教に半分乗っ取られた形になっていましたが、織田信長の弟・信包が養子に入って、結果長野氏は滅亡してしまいました。
長野氏城は、標高540mで伊勢街道からも6キロ以上奥まった山中、天然の要害で周囲が切り立っています。
眺望がとても良く、今日は少し霞んでいましたが、中勢から伊勢湾がよく見渡せました。
南北朝や室町時代期のシンプルなお城の姿という感じで、きっとそんなに戦国期に改修をしてなさそう、と思いました。
信包は上野にある支城・伊勢上野城に住んだと言われていますが、まあ、気持ちはわかる気がします💦
長野氏城までは行きは林道、帰りは山道で下りました。
林道は瀬戸林道から高狭ケ野線へ曲がって登っていきますが、今の状況は派手な落石や倒木が多く、徒歩以外で行って大丈夫かな‥と感じました💦

居館跡の長野城は西、中、東の城と三つの小山に築かれており、こちらもシンプルですが面白かったです。

城趾へアクセスするまでに目にする(ヒガンバナ✖️田んぼ)のコントラストがキレイでした。
道中に忠盛塚、というのがあって、
(清盛のお父さん、ここで亡くなったのー?)とアホな事思っていたら、忠盛さんが生まれてその胞衣塚があるとの事、伊勢平氏発祥の地とされているようでした。そんなエリアだから、源氏方の有力御家人がやってきたんかな?と思いつつ帰りました☺️
写真は長野城遠景✖️ヒガンバナ。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-27)

今日は朝イチの仕事の後、岐阜城の水の手道〜山上〜南西の砦を回ってきました。(交通事情で下調べしていたお城に行けなくなり、急遽のプランBでした💦)

関ヶ原前哨戦の岐阜城攻めは、元岐阜城主で地形に精通した池田輝政が水の手道から攻め上ったとされてましたが、最近の研究では当時の書状及び合戦参加者の後日談、池田家家臣の武功集でも確認できず、後世の創作とされる可能性が高いとのことです。
水の手、といえば、岐阜城は山上部には溜池式の井戸があるけれど、水が湧く井戸は地質的にもないとのことです。要害な地形でも、籠城には向いてない感じですね。

岐阜城は北東は天然の堀的な長良川があり、南西側の山が連なっているピークには砦がたくさんあったことが絵図にも書かれています。
織田秀信は自身と弟・秀則が岐阜城に入り、岐阜城南西の砦や登山口に兵を分散したそうですが、東軍多勢に個々撃破されて山上の岐阜城へと迫られました。
岐阜城から七曲り登山道を下り、金華山ドライブウェイ沿いの山頂と見れば砦になっている感じで、砦はたくさんあるようでした。全部回れなかったですが、面白かったです☺️
写真は上加納砦。天然の狼煙台みたいなのがあります。岐阜城天守がよく見えました☺️
自分のフィールドとか行動範囲では、今年はどんぐりが豊作な気がしますが、どうでしょうか🐻

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-22)

今日は雨が上がりかけたので、暫定登録のお城、愛知県の鴛鴨城と若林城へ行ってきました。ありがとうございます。
途中知ったのですが、名古屋から岡崎方面へ走っていった道は、平針街道(岡崎街道とも)と言って、家康自らが晩年整備した道なんだそうです。写真のような看板がありました☺️
鴛鴨松平氏菩提寺の隣松寺は、三河一向一揆の時家康方の本陣になったそうで、戦勝祈願したというお稲荷さんがありました(お寺だけどね)このお稲荷さんに松平広忠が安産祈願し、竹千代が無事産まれたとも言われてるそうです。
鴛鴨松平氏と血縁のある榊原康政のお父さん、お祖父さんのお墓、松平忠吉のお墓、鴛鴨松平氏の娘で松平忠吉の養母もされた於美津さんのお墓などもあり、興味深かったです。
三河一向一揆の一向宗側の上野上村城は前にも攻城していたのだけど、この隣松寺とすごく近くて、驚きつつ帰りました。

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今日のレビュー

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)

いまでも定期的に読み返す一冊。たまたま見かけたこの本のおかげで攻城団にマンガという武器が加わったと思うと感慨深いです。攻城団で発表した作品を収録した続刊も出版したいと思ってます。

こうの)

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