人吉市役所歴史遺産課によって作成された人吉城の公式パンフレットです。
人吉城の歴史
人吉城は、鎌倉時代のはじめ、源頼朝の命を受け、人吉庄の地頭として着任した遠江国相良庄(とおとうみのくにさがらのしょう)(現在の静岡県牧ノ原市相良)を出身とする相良長頼(さがらながより)により修築されたと伝えられています。ただし山城としての本格的な築城は、文明2(1470)年頃、12代当主相良為続(ためつぐ)の時です。
豊臣秀吉の九州統一後の天正17(1589)年、20代当主相良長毎(ながつね)が豊後(ぶんご)から石工を招き人吉城を石垣づくりの城として改修しました。慶長6(1601)年には本丸・ニノ丸・堀・櫓(やぐら)・御門(ごもん)まで完成し、慶長12(1607)年から球磨川沿いの石垣を築き始め外曲輪(そとぐるわ)が造られました。寛永16(1639)年に石垣工事は中止されますが、この時、近世人吉城がほとんど完成しました。
人吉城は2度の大火があり、特に、文久2(1862)年の寅助火事(とらすけかじ)では城内の建物がほとんど焼失しました。翌年、御館(みたち)北側の石垣が「はね出し」という工法で防火のために造られました。この工法は、函館五稜郭、江戸湾台場など日本の城で数例みられる西洋式の石垣です。
明治4(1871)年の廃藩置県(はいはんちけん)の後、城内の建物は立木とともに払い下げられ、石垣だけが残っていました。相良氏(さがらし)とは
今から約800年前、相良氏初代の長頼は、鎌倉幕府の源頼朝の命を受け、建久9(1198)年、遠江国相良庄(静岡県牧ノ原市)からこの人吉庄にやってきて、地頭になった。室町時代相良氏は、薩摩、日向に兵をさしむけて領地を拡大。やがて、第11代長続(ながつぐ)が上相良氏を滅ぼし球磨部内を統一し、第12代為続(ためつぐ)が八代の名和氏のお家騒動に乗じて八代と豊福(とよふく)を手に入れるなど、戦国大名としての階段を登っていった。その後、第16代義滋(よししげ)は芦北を制圧し、三郡支配(球磨・八代・芦北)をおこなうが、天正9(1581)年の「水俣合戦」で島津義久に敗れ、芦北・八代を失うことに。天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州征伐に敗れ、秀吉に降伏し、球磨邪のみの支配を許された。この時の当主は、第20代長毎(ながつね)である。
長毎は、この頃から中世の人吉城を近世の城としてリフォームを開始し、自然の地形を防御に活かした山城から、石垣造りの城へと修築した。現在の球磨川・胸川沿いの石垣がその時のものである。長毎は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に出陣したが「関ヶ原の戦い」(1600年)では、重臣(じゅうしん)・相良清兵衛の機転により、豊臣方から一転し徳川方についた。徳川家康は天下をおさめ、江戸幕府を設立。相良家も近世大名として明治4(1871)年の廃藩置県まで、この球磨郡の領主・知事をつとめた。
人吉城歴史館のパンフレット、人吉城跡の資料もいただきました。