善防山城
善防山城

[兵庫県][播磨] 兵庫県加西市三口町


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.00(--位)
  • 見学時間:1時間9分(--位)
  • 攻城人数:81(1375位)

多聞寺

多聞寺は後藤又兵衛の菩提寺です。
「大坂夏の陣」、「河内道明寺の戦い」において討ち死にした又兵衛親子を弔うために、又兵衛の一周忌にあたる1616年(元和2年)に三男・佐太郎(太郎正方)が尾崎村、岩本官兵衛から土地の施しを受け、建立しました。

本堂には後藤又兵衛の真牌(位牌)が祀られています。

黒田官兵衛二十四騎(くろだかんべえにじゅうよんき)のひとり「後藤又兵衛(ごとうまたべえ)」の菩提寺(ぼだいじ)
曹洞宗(そうとうしゅう)祝融山(しゅくゆうざん)多聞寺(たもんじ)
 多聞寺(たもんじ)は、曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院(じいん)です。後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)と多聞寺(たもんじ)との関係(かんけい)は非常(ひじょう)に深(ふか)く、大坂(おおさか)夏(なつ)の陣(じん)、河内(かわち)道明寺(どうみょうじ)の戦(たたか)いにおいて又兵衛(またべえ)が討(う)ち死(じ)にした翌年(よくねん)の元和(げんな)2年(ねん)(1616年(ねん))に、又兵衛(またべえ)の三男(さんなん)佐太郎(さたろう)(太郎正方(たろうまさかた))が父(ちち)と兄(あに)を弔(とむら)うために、尾崎村(おさきむら)、岩本官兵衛(いわもとかんべえ)から土地(とち)の施(ほどこ)しを受(う)け、又兵衛(またべえ)の一周忌(いっしゅうき)に合(あ)わせて多聞寺(たもんじ)を建立(こんりゅう)しました。
 又兵衛(またべえ)の菩提寺(ぼだいじ)である多聞寺(たもんじ)は、現在(げんざい)も又兵衛(またべえ)の真牌(しんぱい)(位牌(いはい))を本堂(ほんどう)に奉安(ほうあん)しています。
 また、西隣(にしどなり)の大村町(おおむらちょう)には、三男(さんなん)佐太郎系(さたろうけい)の末裔(まつえい)の方(かた)が現在(げんざい)も住(す)んでおられます。加西市観光まちづくり協会(2014年3月)

多聞寺の観光情報

住所兵庫県加西市尾崎町288
   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

善防山城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る