高取城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
史跡 高取城跡
高取城跡は、奈良盆地の南端、標高五八四mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣喰違い虎口(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は四〇〇m以上を測る。
十四世起前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。織田信長の一国破城(いっこくはじょう)により、天正八年(一五八ぜ年)に一旦は廃城となるが、天正一二年(一五八四年)の筒井順慶による復興をへて、豊臣秀長の家臣本田氏により天正から慶長の頃(十六世紀末~十七世紀初頭)に近世城郭として完成した。その後江戸時代に入り、寛永一四年(一六四〇年)に譜代の植村氏が入部して二万五千石の居城とした。以後明治維新まで、植村氏が一四代に渡って城主となった。山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町のニ様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。
二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は「城内」とよばれ、山中のすべての曲輪(くるわ)を含んだ範囲が「郭内」とよばれている。現在は、郭内に建造物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。指定年月日 昭和二八年三月三一日
平成二三年三月 奈良県教育委員会