石神井城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
石神井城の中心内郭跡(ないかくあと)
石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。
城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(一四七七)四月二十八日に太田道灌(おおたどうかん)に攻められ落城し、廃城になりました。「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経(としまやすつね)は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の一月二十五日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。
城は、石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では九へクタ-ル前後の規模であったと推定されています。当時の城は、土塁(どるい)と濠(ほり)で土地を四角形に区画した場所(郭(くるわ))をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約一〇〇メ-トル程の場所に幅七メ-トル程の濠で区画されていたと考えられ、西側は、ここより約二二〇メ-トル程の場所に幅九メ-トル程の濠と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と壕が良く残っています。昭和四十二年の発掘調査では、次のような規模の郭であることがわかりました。
- 空堀
- 上幅 一一、六メートル
底幅 三メートル
深さ 六、一メートル- 土塁
- 基底部 一二、三メートル
現在高 二、三メートル
(築城当時の高さ推定四、五メートル)また、内部は平坦であり、陶磁器片、かわらけ(素焼土器)、鉄釘なども出土しており、何らかの建物があったと考えられます。
この地域は、右のように濠と土塁が良く残っている大切な場所です。少しでも永(なが)くこの状態が残せる様、皆様のご協力をお願い致します。
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