千早城にある案内板の内容を紹介します。案内板は千早神社への登城口にあります。
史跡千早城跡
元弘二年(一三三二年)、楠木正成が構築し、翌年五月まで百日間、藁人形等の奇策をもって鎌倉幕府軍の攻撃に堪えて建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。
- 所在地
- 大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
- 所有者
- 千早神社他
- 管理者
- 千早赤阪村長
標高約六六〇米で、城の南(妙見谷)、北(風呂(ふろん)谷)、西(大手口−現在地)の三方は急斜面で、府道との比高は一五〇米。東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。
五百数十段の石段を登ると四の丸があり、それより本丸までの奥行が約三〇〇米、その比高は約三〇米である。
太平記に、敵は百万騎、身方は僅かに千人足らずにて「誰ヲ憑(たの)ミ何(いつ)ヲ待共(まつとも)ナキニ城中ニコラヘテ防ギ戦イケル楠木が心の程コソ不敵ナレ」とある。
昭和九年三月一三日 史跡指定文化庁
大阪府教育委員会
千早赤阪村教育委員会