単なる柵でなく、乾堀+土塁(銃眼付き身隠し)かつ、柵も枝付きという、さらに工夫されたものだったという設楽原をまもる会名和弓雄さんの考証に基づく復元も。
ここで血まみれ、泥まみれの首を洗って、手柄を報告したのでしょう。 夜一人では歩きたくないですね。(戦場だったのだからどこもかしこも怖い)
きれいに長方形なのは、田んぼに囲まれていたからというか、この池も本来田んぼだったのだろう。プールのようだ。絶対泳ぎたくはないが。
川原を挟んだ両陣営がいよいよここで激突したと。この場に立って想像が膨らまない歴史ファンがいるだろうか。(石碑を垂直に合わせたら平地が斜めになったな。てへ)
竹広激戦地に立てられています。
武田家臣の甘利左衛門信康は柳田激戦地を任され、最期は立ったまま切腹したと伝わっています。
鉄砲の 時代(とき)へ移りし 設楽原 馬の嘶(いなな)き 武士(もののふ)の涙(つゆ) 詠み人知らず、なんてね。
単なる柵でなく、乾堀+土塁(銃眼付き身隠し)かつ、柵も枝付きという、さらに工夫されたものだったという設楽原をまもる会名和弓雄さんの考証に基づく復元も。
土塁に身を隠して鉄砲を撃つ。これがやがて城壁や櫓、天守に設けられる「狭間」へと変わっていったのだろう。
僕らからすれば工場(倉庫かな)があるのは無粋と感じちゃうけれど、ここで生活される方には避けられないこと。そこでこうした形でこの地に協力しようということなんでしょうね。あっぱれ。
連吾川にかかる橋。(反対東側は武田騎馬隊のレリーフ)
連吾川にかかる橋。(反対西側は織田・徳川連合軍の鉄砲隊のレリーフ)
設楽原歴史資料館前の広場で、たまたま幸運にも間近で見ることができました。
武田四将(馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次)が水杯を交わしたという井戸だけ見てきました。次回来るときは奥まで攻めたいと思います。
まだ2月でしたが、満開でうれしくなりました。戦場散策のさなかに心なごみます。
強右衛門(すねえもん)磔(はりつけ)の石碑は、実は今の場所と違い、もっと道路近くの田んぼのあぜ道にあったとのこと。長篠城に近い対岸ぎりぎりに移したほうが雰囲気が出るからというような意見があって変えてしまったのだとか。
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おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
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