竹ヶ鼻城の本丸跡(推定値)に設置されている案内板の内容を紹介します。
羽島市指定史跡竹ヶ鼻城跡
竹ヶ鼻城は「美濃古城史」によると、応仁年間に竹腰伊豆守が築城したとある。
天正九年(一五八一)城主不破源六は、一時荒廃していた城を拡大し、城の鬼門の守護神として八剣神社を遷座し、菩提所本覚寺を創立した。同一二年五月、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉の水攻めにあい一か月後に開城した。
最後の城主杉浦五左衛門は織田秀信(岐阜城主)の旗下にあり、慶長五年(一六〇〇)八月、関ヶ原の戦いで東軍の攻撃を受け、自害して城は炎上し、廃城となった。
城跡の位置は、戦前は竹鼻町一五〇七番地(昭和六年県指定)戦後は竹鼻町丸の内三丁目四八番地の一(昭和三〇年市指定)となったが、これらは口承や地形、文献から推定したもので、石垣などの確証は未だ得られていない。
今回、本丸の跡と刻む石標を、この地(竹鼻町二六二四番地の一)へ移したのは、すぐ道を挟んでお城地蔵尊(昭和二五年石標と共に町史跡保存会が建立)があることや、近年、城町開拓の文書資料から、この地の辺りを本丸の跡とみる新説が出され、今後の研究の進展を期待したことによる。平成八年七月 羽島市教育委員会