荒子城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
前田利家と荒子城
加賀百万石の藩祖、前田利家は一五三七(天文六)年(天文七年説あり)、利昌の四男としてこの地に生まれました(前田城説あり)。幼名は犬千代。十五歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。二十二歳のとき、十歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)と結婚。この頃、又左衛門利家と名を改めています。若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ「槍の又左」と呼ばれました。桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍、三十三歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。利家三十九歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。
荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。規模は狭い平地に簡単な柵と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。城内には、冨士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。また、利家が府中に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。
利家が最も信頼した本座者といわれる「荒子衆」はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの「尾張町」が残っています。時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹校提携や、関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。
二〇〇二(平成十四)年NHKの大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語~」が放映され、利家生誕地「荒子」が広く全国に紹介されました。中川区で結成された「前田利家発信隊」は、利家ゆかりの史跡を結ぶ「犬千代ルート」を作り、ルートのガイドや、まちおこしに積極的に参加、郷土の英雄利家とともに百万石のふるさと「荒子」を全国に発信しました。
(参考文献『中川区史』他)ニ〇〇三年三月 名古屋市中川区前田利家発信隊