大草城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
大草城址の由来
大草城は、織田信長の弟で、後に茶人としても名を挙げた源五長益(有楽齋)が、築城しようとして途中で断念した"幻の城"である。
矢田川とその支流の流域からなる大野谷、(現知多市の南部と常滑市の北部地域)を拝領していた長益は、大草の地に城を築き始めた。しかし、天正十年(一五八二)に本能寺の変で信長が暗殺され、長益も天正十二年(一五八四)の長久手の合戦後、しばらくして秀吉に仕え、摂津国味舌(現大阪府三島郡三島町)に天封された。このため、地形(ちぎょう)などの普請が大体終わったところで放棄され、廃城となり、幻の城と呼ばれるようになった。
ともあれ、西は伊勢湾が迫り、南は矢田川、東は神田川が流れ、それぞれ外堀の役目を果たし、なかなかの要害の構えであった。
現在、大草城址は、本丸、二の丸と周囲の土塁、堀の大部分が、ほぼ完全な形で残っており、このような城址は、愛知県下でも数が少ない。このように保存状態がよいのは、尾張藩の徳川義直、光友に仕えた重臣、山澄淡路守英龍が大草を給地され、寛文六年(一六六六)に城址の西南方に屋敷を構えるなど、歴代の支配者が保存に力を注いだためである。
市では、こうした歴史的価値をとどめる城址をさらに保存、広く市民にも憩いの場として開放するため、大草公園として整備。本丸跡に天守閣を模した展望台を設置したり、二の丸跡に散策道を設けている。施設の保全と管理が行われている。知多市