獅子ケ城に設置されている案内板の内容を紹介します。
獅子城跡(ししがじょうあと)
獅子城跡の歴史
獅子城跡(ししがじょうあと)は治承(ちしょう)〜文治(ぶんち)年間(1177〜1190)に峯五郎(みねごろう)源披(みなもとのひらく)によって築城されましたが、披(ひらく)の子である源持(みなもとのたもつ)の時に平戸に移ったため以後長い間廃城になったといわれています。
持(たもつ)が獅子城を去ってから、上松浦地方は波多(はた)氏の支配下となります。その後佐賀地方に勢力を持つ龍造寺(りゅうぞうじ)氏の脅威が増すにつれ、上松浦地方の防備の最前線として獅子城の重要性が再認識されだしました。波多(はた)氏をはじめとする松浦党の一統は鶴田越前守前(つるたえちぜんのかみすすむ)に獅子城を再興させました。前(すすむ)の子である鶴田上総介賢(つるたかずさのすけかしこ)のとき、文禄(ぶんろく)の役(1592〜)で波多(はた)氏が改易となる前後に、多久(たく)氏につかえて東多久に移り住んだため、獅子城は再び廃城となってしまいます。
波多(はた)氏改易後の上松浦一円を所領した唐津藩初代の寺沢(てらさわ)氏は、当初家臣を獅子城におきました。その際に獅子城を現在見られる石垣造りの城に改造し、瓦葺きの建物、櫓、門等を建てたようです。大坂夏の陣(1615)以降、全国の城郭の多くが破却されだす頃、寺沢氏も同様に獅子城を破却(はきゃく)し、古城番(こじょうばん)として監視の武士を岩屋村に常駐させたようです。後に唐津藩代々の藩主も古城番をおきましたが、文化(ぶんか)十四年(1817)に幕府領となった際に、古城番は廃止されたと伝えられています。
獅子城跡(ししがじょうあと)の遺構
獅子城跡(ししがじょうあと)は、標高228mの白山に広がる中近世城郭です。本丸(ほんまる)・井戸曲輪(いどくるわ)・二の丸・三の丸・一の曲輪・二の曲輪・出丸等の曲輪(人工的に造った平坦地)群で構成されます。周囲は断崖絶壁に囲まれた天然の要害で、岩盤が剥き出しの二の丸以外は絶壁の上に石垣を築いています。発掘調査により、江戸時代初期の礎石建物跡や虎口(曲輪の内外をつなぐの出入口)等、新たな遺構を確認しており、非常に堅固な防備であったことが窺えます。唐津市教育委員会