神代城に設置されている案内板の内容を紹介します。
(史跡)鶴亀城址と神代の由来(昭和六十一年三月 伊藤祐光記)
この城は地形を巧みに利用した戦国時代の山城(別名、海城)で、その歴史を調べようとしても、宝永四年(一七〇七)と記された古図以外、殆ど資料が残っていないが鎌倉時代より、もっと住古からあったことだけは、次のような古い記録から推定出来る。
(注)島原半島における歴史文化財としての古城は、原城、日野江城、鶴亀城であり、日本山城図鑑にのっている
◎神代の名称由来
一、雲仙満明寺縁起の中に「天孫降臨は、初め雲仙に降臨され加無之呂に至れり茲より肥後八代に渡られしも、海荒れて中々に渡れず、漸く八回目に渡海せられしにより八代の地名つく。それより日向の高千穂に向われたり」と記してある。加無とは(神)之呂とは代(城)の意で、神様の城と云うことらしい。
二、井上通泰博士の肥前風土記には「景行帝十二年玉名郡(こうり)(肥後)より高来郡を眺めて神代直、以下の将士を派遣し神代地域の鎮静に当らせたり」即ち景行天皇(十二代)熊襲征伐の時、神代直と云う従臣がいてその一族がこの土地に残って代々治めたと記してあり、これが地名となったとも云われている。
三、太宰府管誌「延喜式」(延喜十年、九一〇)にも神代荘園として神代家が載っている。この項から荘園の主として神代家が勢力を台頭して来たと考えられる。
○和銅六年(七一三)肥前となった。この頃、多比良には五万長者が勢力を有していた。
○天平三年(七三一)僧、行基雲仙に満明寺を建立。
○弘安四年(一二八一)蒙古襲来、神代家も兵を率いて出陣したとの古事記(太宰府管誌)がある。この城は自然の地形を利用し、南側以外は潮の干満する深い泥土に囲まれ、高さ約六丈、広さは東西約二町、南北約六町あり代々築城して神代兵部大輔貴益の時代に本丸まで整備、その出城として西に古部城、尻無城、東に切通城、大坪城、浅井城があった。空には鶴が舞い、潮のみちる城の下には亀が泳いでいたと云うので、この名がついたとの伝説がある。
弓矢時代、戦術的には難攻不落の城であったことは、容易に推量出来るし南北朝時代より戦国時代天正十二年(一五八四)までの間、幾度か攻撃を受けているが落城しなかった。(以上故帆足清勝先生の資料より)
◎神代家の滅亡
○天正十二年三月、島原沖田畷における有馬島津連合軍と龍造寺隆信軍との戦いで濃霧に乗じて南軍は一気に北軍の本陣を急襲し隆信討死、之と同盟していた神代貴茂も深紅の砦より急ぎ、この城に戻っていたが、多比良まで北上して来た南軍は、この城攻めの愚(潮と泥土)を知り、一計を案じて貴茂に和議を申し込んだ。單独では勝てないと貴茂も仕方なく之に応じ従者をつれて和議の場所轟城に赴き和議書に押印した。南軍は一席の宴を張り夕刻貴茂一行の帰途これを犬の馬場(今の角部落)で伏兵により謀殺(天正十二年四月六日)今も古い墓が残っている。
○天正十五年秀吉は島津征討のため、大軍を率いて九州に下向、この時鍋島藩初代直茂は、秀吉の允許を得て旧神代家の領地を神代分藩とした...幕末まで二八一年間。
(今尚大木のうつ蒼と茂るこの城址を眺める時、遠く過ぎ去った歴史の流転と哀歌が身近に感じられる)