釜蓋城に設置されている案内板の内容を紹介します。
釜蓋城由来記
室町末期乱世の頃、原城構築者有馬貴純の族臣淡路守が主命により半島西口の要地である千々石に来り領した。
そして小倉城山に城を築いた。これが釜蓋城である。
時に永禄十二年であった。その後有馬晴信の代に、淡路守の子千々石大和守直員が父のあとを継いだとき、 天正五年龍造寺隆信は数万の兵を以て半島に迫り一隊の武将は千々石釜蓋城に攻め寄せた。...(中略)...城将大和守は頗る胆力があり、急を村民に伝えて堅く守り老臣木戸萬九郎と力戦大いに勉めたけれども衆寡敵せず、刃折れ矢尽きて自刃した。時に二十五歳。「以上千々石町史より」
日本の文化史上忘れてはならない先駆者、天正遣欧少年使節の一人千々石清左衛門直員はこの釜蓋城主千々石大和守の忘れ形見であり天正十年(一五八三年)有馬家の代表として、大村、大友の両大名から選ばれた少年使節とともに万里の波涛を越えて、ローマ法王に謁見し八年の歳月をかけて歴史的使命を果した。
(傍らの顕彰碑の裏に銘記があります。)
この城趾展望台は、島原半島史を彩る戦国の昔を偲ぶよすがとするとともに、日本人として、はじめて西欧先進文化を我が国に、もたらした郷土の先人の事蹟を後世に伝承するため、橘公園整備事業の一環として、城山の麓に在った顕彰碑の移設も併せ築造したものです。昭和六十二年三月 千々石町