鹿屋城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
史跡(しせき) 鹿屋城址(かのやじょうあと)
(別名 亀鶴城(かめつるじょう))
鹿屋市街地(かのやしがいち)の隘路(あいろ)に迫る火山灰台地(かざんばいだいち)の突端(とったん)をたくみに利用した中世8ちゅうせい)の山城である。
城郭(じょうかく)は、本丸(貯水池)、二の丸(公園)、中城(なかじょう)(公園)、松尾城(まつおじょう)(幼稚園・老人福祉センター)、 大明城(だいみょうじょう)、今城(いまじょう)、取添城(とりぞえじょう)などに分かれ周囲およそ二キロメートル、大手口(おおてぐち)は南面(みなみめん)にあり、いま大手町(おおてまち)の地名を残す、両面の水濠(すいごう)は現在、駐車場、公園に変じている。
この城の始まりは『古城主由来記(こじょうしゅゆらいき)』に「島津久経(ひさつね)時代津野四郎平衛(つのしろうべ)、鹿屋城主(かのやじょうしゅ)」とあるからだいたい鎌倉時代(かまくらじだい)承久年間(じょうきゅうねんかん)頃と思われる。もっとも津野氏の拠った鹿屋城というのがこの城址(しろあと)であったのか、また肝付氏(きもつきし)一族の萩原氏(はぎはらし)、鹿屋氏(かのやし)の居城であったのかはっきり断定できない。
その後は、鹿屋氏の居城となっている。鹿屋氏没落後天正八年(一五八〇年)から伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が十五年間居城、彼が文禄四年(一五九五年)都城(みやこのじょう)に転封後(てんぽうご)は島津相模守久信(しまづさがみのかみひさのぶ)が一時居城、その後廃城となった。
平成十三年五月鹿屋市教育委員会