松山城
松山城

[鹿児島県][日向] 鹿児島県志布志市松山町新橋


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.00(--位)
  • 見学時間:23分(--位)
  • 攻城人数:36(2419位)

松山城址の案内板

松山城址に設置されている案内板の内容を紹介します。

松山城址(二ノ丸跡)
所在地 松山町新橋松尾

 松山城は文治四年(一一八八年)平清盛の弟頼盛(よりもり)の孫である隠岐守重頼(おきのかみしげより)が松山に来て松山城を築いたという記録が残っています。
 城が築かれた後、四年経った建久三年(一一九二)には、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。このような時代に、城を築いた重頼はいつ頃まで松山を治めたのか分かりませんが、あまり長くなかったといわれています。
 その後、戦国時代になると島津氏や肝付氏などの勢力争いのため、松山城は度々激しい戦乱の舞台となり、何度か落城したようです。最終的には島津氏の直轄地(ちょっかつち)となり、島津家の家臣が地頭(じとう)となり松山を治めました。
 松山城は本丸、二ノ丸、五兵衛城(ごへいえいじょう)、八幡城(はちまんじょう)の四つに分かれていますが、現在そのままの状態で残っているのは二ノ丸部分だけです。志布志市教育委員会
   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

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