松山城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
松山城址(二ノ丸跡)
所在地 松山町新橋松尾
松山城は文治四年(一一八八年)平清盛の弟頼盛(よりもり)の孫である隠岐守重頼(おきのかみしげより)が松山に来て松山城を築いたという記録が残っています。
城が築かれた後、四年経った建久三年(一一九二)には、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。このような時代に、城を築いた重頼はいつ頃まで松山を治めたのか分かりませんが、あまり長くなかったといわれています。
その後、戦国時代になると島津氏や肝付氏などの勢力争いのため、松山城は度々激しい戦乱の舞台となり、何度か落城したようです。最終的には島津氏の直轄地(ちょっかつち)となり、島津家の家臣が地頭(じとう)となり松山を治めました。
松山城は本丸、二ノ丸、五兵衛城(ごへいえいじょう)、八幡城(はちまんじょう)の四つに分かれていますが、現在そのままの状態で残っているのは二ノ丸部分だけです。志布志市教育委員会