石神城
石神城

[茨城県][常陸] 茨城県那珂郡東海村石神内宿字城ノ内


  • 平均評価:★★★★☆ 3.58(--位)
  • 見学時間:48分(--位)
  • 攻城人数:135(769位)

石神城の案内板

石神城に設置されている案内板の内容を紹介します。

石神城の歴史と構造
〈歴史〉石神城(いしがみじょう)は中世(ちゅうせい)においては佐都西郡石神郷(さとにしぐんいしがみごう)に位置し、東には蛇行(だこう)した久慈川(くじがわ)が流れ、南北を深い谷地(たにち)に挟まれた要害(ようがい)の地に造られていました。この城が歴史に登場したのが永享四年(一四三二)の石神城合戦(いしがみじょうかっせん)の時ですが、小野崎越前三郎(おのざきえちぜんさぶろう)が城方(しろかた)を攻めて鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ)より感状(かんじょう)を与えられています。文正二年(一四六七)ごろには小野崎越前守(おのざきえちぜんのかみ)がこの城の城主(じょうしゅ)となっていましたが、天文四年(一五三五)には石神小野崎道長(いしがみおのざきみちなが)による「石神兵乱(いしがみひょうらん)」が起こり佐竹義篤(さたけよしあつ)は同族(どうぞく)の額田小野崎篤道(ぬかだおのざきあつみち)にこれを鎮(しず)めさせました。しかし、天文十六年(一五四七)には両者は所領(しょりょう)の境をめぐて再び戦い、城は落ち道長は城を退去(たいきょ)しました。しかし、その後石神小野崎氏(いしがみおのざきし)は佐竹氏(さたけし)への戦功(せんこう)により帰城(きじょう)が認められ、永禄元年(一五五八)~三年にかけて石神外宿(いしがみとじゅく)の石神城鎮守住吉神社(いしがみじょうちんじゅすみよしじんじゃ)を再建し、戦死した一族の菩提(ぼだい)のため、願泉寺など三か寺(さんかじ)の寺を建立(こんりゅう)しました。慶長七年(一六〇二)佐竹氏が秋田に移封(いふう)されると石神小野崎通広(いしがみおのざきみちひろ)も秋田に行き、石神城は廃城となりました。

〈構造〉石神城(いしがみじょう)は東に久慈川(くじがわ)を望む本郭(ほんかく)(Ⅰ郭「遠見城(とおみじょう)」、Ⅱ郭「御城(みしろ)」、Ⅲ郭)を中心に、その北西に北郭(ほくかく)(領主屋敷)を置き、その西に城下町である総構え(そうがまえ)を持っており、その中は道路に沿って上宿(かみじゅく)・中宿(なかじゅく)・下宿(しもじゅく)と区画され、観音寺(城主の祈願所)が置かれ、西表(にしおもて)が大手口(おおてぐち)となっていました。また、南の谷地(たにち)の外側には長松院(城主の菩提寺)を置き外郭(がいかく)としました。東海村
   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

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