高城
高城

[宮崎県][日向] 宮崎県児湯郡木城町大字高城字城山


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.07(--位)
  • 見学時間:36分(--位)
  • 攻城人数:99(1014位)

高城城跡の案内板

高城城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。

高城城跡(町指定文化財)
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高六十mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。
 この城では、天正六年(一五七八年)、天正十五年(一五八七年)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約五万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦と呼んでます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長率いる十五万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城しての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪(くるわ)と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。
 平成四年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列などの遺構、土師器(はじき)といわれる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。平成十五年二月一〇日
木城町教育委員会
   

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戦国の終わりを告げた城―八王子城を探る (ロッコウブックス)

おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。

赤ヱ門さん)

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