高城城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
高城城跡(町指定文化財)
高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高六十mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。
この城では、天正六年(一五七八年)、天正十五年(一五八七年)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約五万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦と呼んでます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長率いる十五万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
城しての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪(くるわ)と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。
平成四年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列などの遺構、土師器(はじき)といわれる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。平成十五年二月一〇日
木城町教育委員会