馬坂城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
馬坂城址
平安時代の末期、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫昌義は、久慈郡佐竹郷に永住し、佐竹氏を名のり馬坂城を築いた。
馬坂城は、大地の先端部の約六〇〇〇m2の敷地を、三つの空堀で分断して曲輪を設けた平山城で、北を鶴が池、西南を山田川に囲まれた自然の要害であった。
佐竹氏は、三代隆義が太田城(舞鶴城)に移り、その後の馬坂城には四代秀義の子義清が稲木氏を名のって居住したり、十四代義俊の子義成が天神林氏を称して居住した時代もあったが、慶長七年(一六〇二)の佐竹氏秋田国替えにともない廃城となった。
また城内には、縄文時代前期の頃と見られる間坂貝塚がある。常陸太田市