松平城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
豊田市指定史跡松平城址
豊田市松平町三斗蒔一七
郷敷城と称する。応永(一三九四~一四二七)のころ松平(徳川)氏の始祖親氏の築城と伝わる。松平氏館跡の南東五百メートル、お城山と呼ばれている標高ニ九八メートルの山頂に位置し、本丸は約六アール、西北部山腹に二の丸、その下段に三の丸跡がみられる。西部の他は総て急峻な斜面で、本丸跡の下方約一五メートルの山腹に南、東、北の三方にわたり幅三~五メートルの空堀が約二百メートル残っていて、不時の敵襲に対する室町時代の典型的な山城である。文禄(一五九ニ~一五九五)のころに破却といわれているが明らかではない。昭和六一年三月
松平親氏公顕彰会
松平城址(まつだいらじょうし)
郷敷(ごうしき)城とも呼ばれる。応永の頃(一三九四〜一四二七)松平氏の始祖親氏(ちかうじ)が築いたと言われる。跡を継いだ二代泰親(やすちか)(親氏の弟。一説に子。)が三男信光(松平宗家三代)とともに岩津(いわづ)(岡崎市)に進出してからは、次男信広の居城となったと伝えられる。(信広、信光は親氏の子との説もある。)信広は松平郷松平家(松平太郎左衛門家(たろうざえもんけ))の祖となり、子孫はその後も松平郷にとどまって四四二石取りの交代寄合旗本(こうたいよりあいはたもと)となった。城の南東直下を新城街道(国道三〇一号)が通る。
城は標高三〇〇メートルの1が主郭(しゅかく)で、その西に三段の細長い曲輪(くるわ)(2〜4)が配置されている。これらの曲輪を南、東、北の三方向から囲むように横堀Aが巡らされており、途中数ヶ所で竪堀(たてぼり)となって斜面を下っている、そのほかに櫓台と思われる遺構Bや井戸跡Cなどが残っている。
廃城の時期については諸説があり定かではない。豊田市教育委員会