田峯城に設置されている案内板の内容を紹介します。
歴史の里 田峯城
田峯城は、県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高三八七mの独立丘陵にある山城です。本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並が、まさに大蛇のようであることから田峯城は別称「蛇頭城(じゃずがじょう)」、「竜の城」と呼ばれていました。
田峯城は文明二年(一四七〇)菅沼定信によって築かれ、定信→定忠→定広→定継→定忠と、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。
当時は下剋上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、この奥三河では作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏三氏が「山家三方衆」として結束していました。しかしその団結も時によっては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。五代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀反にあい、田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。復讐を誓った定忠は、翌天正四年(一五七六)七月十四日田峯城に夜襲をかけ、謀反の一族老若男女九十六名を惨殺、主謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処しました。定忠は天正十年(一五八二)飯田知久平にて討たれ、その後田峯宗家菅沼氏は断絶しました。
※この田峯城は、他の中世城郭についての調査を基に復元しました。
田峯城本丸
中世戦国時代の山城、田峯城は、当時の武家屋敷をしのばせる書院造りという様式を用いて復元しました。
書院造りとは、それまでの公家文化でいう寝殿造りが変化して確立した建築様式です。中世の一時期には寝殿造りにおける「寝殿」の略化したものを「主殿」と呼び、公家、武家の間で一般化していました。田峯城の「御殿」は、この「主殿」を参考にしています。
「御殿」は、梁間(はりま)六間、桁行(けたゆき)八間の大きさ、南に中門(ちゅうもん)が、北に色代(しきだい)が張り出しています。屋根は板葺(いたぶき)、入母屋(いりもや)造り、中門と色代は切妻(きりづま)です。車寄(くるまよせ)に杮葺(こけらぶき)の唐破風(からはふ)をつけています。車寄は両折れの妻戸(つまど)として、その北の柱間には蔀戸(しどみど)を、車寄の南は中門で連子窓(れんじまど)と妻戸が、中門の落縁(おちえん)には脇障子(わきしょうじ)があります。南側は吹き放しの広縁(ひろえん)になっています。内部は、南側に十八畳の上段の間、十八畳の二の間、六畳の公卿(くぎょう)の間が、北側に十二畳の鑓(やり)の間、四畳の畳廊下が続いています。上段の間には床(とこ)と違棚(ちがいだな)が並び、その南側に二条の上々段が広縁に張り出しています。上々段には床と付書院(つけしょいん)があります。
本丸には「御殿」のほか、家臣の住居と馬屋を兼ねた「厩(うまや)」、見張りのための「物見台」、「本丸大手門」、「搦手門(からめてもん)」を当時の建築方法により復元しました。