笠岡城址である古城山公園に建てられている案内板の内容を紹介します。
古城山公園
伝承
標高約七十米。古くから内海の景勝地として知られる。もとは、海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。
別名、「海松(みる)が丘」、「吸江山」、「高松の城山」と言われた。笠岡城
弘治年間(一五五五〜一五五八)に能島村上水軍の一族、村上隆重が笠岡城を築城。その後、村上景広、毛利元康が在城。関ヶ原合戦後、徳川家康の所領となり、代官、小堀新助が入城。
元和二年(一六一六)池田備中守長幸の居城。
元和五年(一六一九)松山城(高梁市)に移り、笠岡城は廃城となった。
明治四十年(一九〇八)末新田埋め立てのため切り下げられ、城の遺構が消滅した。
昭和三十一年、笠岡市の都市公園となる。笠岡市都市計画課