戸倉城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
戸倉城址
戸倉城は戦国時代北条氏綱(一四八六~一五四一)が築いたという。主曲輪は本城山の頂上にあって、東西四〇メートル・南北三〇メートルの平場で、もとは土塁がめぐっていたという。東側に一段下がって袖郭があり空堀で仕切られる。南側には見張台の役目をはたした天狗岩がある。東曲輪は東方にのびる尾根上にあり、左右から切り込んだ三本の空堀によって、屈折した平場をつくる。先端の南東斜面には三段の平場と、反対の北東斜面には空堀切と二段の平場と、その最下段には裾郭がある。 また主曲輪から北西に下る斜面には空堀を左右からくい込ませた小郭が連続してつくられ最下段左手より狩野川へ向かって空堀があった。大手登り口は龍泉寺山門左手にあって、数段の平場を経て右にまがり主曲輪に至るが、その中ほど左右に空堀と土橋がある。西曲輪は本城山西端下で空堀切によって区切られる。それにより左右に九本の堅空堀と稜部に小郭が八幡神社裏まで連続している。八幡神社西側の県道を越えて摩利支天郭があり、ここから烏帽子岳太鼓櫓まで、空堀切と平場が尾根上にある。外原出口にも小郭があった。城主の居館は龍泉寺内であったという。 永禄十一年(一五六八)から元亀二年(一五七一)にかけて駿河に攻めこんだ武田信玄と北条氏は、この戸倉城で戦った。また天正八年(一五八〇)、武田勝頼は沼津三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻撃した。北条方の城将笠原新六郎はよく城を守ったが、天正九年(一五八一)、武田方に寝返って城は武田氏のもととなった。天正十年(一五八二)、武田氏の滅亡と共に戸倉城は再び北条氏のものとなった。天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城征伐が始まると、北条氏は戸倉城を捨てて韮山城へ退いたという。