金ヶ崎城の案内板の内容を紹介します。
案内板は、金崎宮の社務所付近にあります。
金ヶ崎城跡(昭和九年三月十三日国の史跡に指定)
金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。
南北朝時代の延元元年(一三三六)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏治の居城であったここ金ヶ崎に入城、約半年間足利勢と戦い翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、恒良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士三〇〇余名が亡くなったと伝えられる。
戦国時代の元亀元年(一五七〇年)四月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。またこの殿(しんがり)での危機を救ったのは家康で、後の天正十四年(一五八六)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされている。すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。
現在は、三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(八六メートル)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素晴らしく天候がよければ越前海岸まで望むことが出来る。
中腹には、金崎宮が創建されていて毎年境内の桜が咲ころ桜の小枝を交換して幸福を願う全国的にも大変珍しい「花換祭」が開催されている。