高橋紹運は大友宗麟の家臣で、若くして名将とうたわれていました。
1578年(天正6年)に起きた「耳川の戦い」で大友家は島津義久に大敗し、さらには1584年(天正12年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、九州での勢力争いは島津家に一気に傾いていきます。
そして1585年(天正13年)9月に大友家の宿老である立花道雪が病死すると、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まっていきます。
これを好機と見た筑紫広門に宝満城を攻撃されて奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城の奪回に戻ります。そして広門と和睦し、広門の娘を次男・立花直次(高橋統増)の正室に迎えました。
1586年(天正14年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく5万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来ます。このとき岩屋城に残っていた城兵はわずか763名でしたが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦しました。
結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は攻撃開始より14日目の7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落しています。
この苛烈かつ激戦であった攻城戦のことを「岩屋城の戦い」と呼んでいます。
紹運は島津軍諸将より降伏を勧められますが、「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切り、この発言に敵味方関係なく賞賛の声が上がったそうです。
ちなみに降伏勧告は計5回、島津方から3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ受けましたが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っています。
そのようないきさつもあり、岩屋城跡には紹運の墓と763人の城兵を弔う慰霊碑が建てられています。
高橋紹運並びに勇士の墓
戦国の武将高橋紹運(しょううん)は23歳で岩屋城主となり名将の誉れ高かった。天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い、城兵763名と共に玉砕した。時に39歳であった。紹運以下勇士たちここ二の丸趾に眠る。
辞世歌・流れての末の世遠く埋もれぬ
名をや岩屋の苔の下水太宰府市