黒野城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
岐阜市史跡黒野城跡
昭和三十年十二月二十二日指定
黒野城跡は加藤氏の居城で、面積十七・五二三㎡、本丸築堤の高さ五・四mあり、その周囲の濠は水をたたえて昔の面影をよく残している。西南の入口付近には今でも城門の礎石があり、周辺には惣門口・木戸・二之丸・井之上・徳田屋敷などの地名が残っている。
加藤光泰は、はじめ斎藤龍興に仕えていたが、斎藤氏の滅亡後は織田・豊臣氏に仕え甲斐国甲府城主として、二十四万石を領したが朝鮮の陣中で歿した。その子左衛門尉貞泰は幼く領地を減され、文禄三年七月(一五九四)甲府城より黒野城に移って四万石を領した。関ヶ原合戦には東軍に属し、慶長十五年(一六一〇)まで十五年間、居城としていたが同年七月伯奢国米子六万石に移封となり、黒野藩は短期間で終った。元和三年(一六一七)伊予国大洲城に移り、左近大夫と名を改め、同九年五月に歿した。昭和五十七年二月
岐阜市教育委員会