酒々井町教育委員会によって作成された本佐倉城の公式パンフレットです。
関東の名族千葉氏の最後の居城本佐倉城
千葉氏は、鎌倉、室町幕府の元で下総を中心に一大勢力を張り代々「千葉介」と呼ばれ、下総守護職として関東有力大名のなかで筆頭の地位にあった一族です。
1 本佐倉城築城
享徳3(1454)年に始まる古河公方と関東管領上杉氏が対立した享徳の大乱は関東全域に広がりました。下総の千葉氏もこの戦乱の中で内紛が起こり、本宗家が滅亡し、一族の岩橋輔胤が継承しました。この輔胤、その子孝胤の時期(文明年間1469?1487)に、千葉氏の本拠を鎌倉時代以来の千葉から佐倉(現在の酒々井町周辺)へ移し、新たに築城したのが本佐倉城です。2 下総の首府となる
築城後、市立て町立てが行われ、本佐倉城の周辺には寺院が次々と創建されました。城の鎮守である八幡神社のご神体を整え、神社の修復も行いました。3代当主勝胤の時には自身の名をつけた常歳山勝胤寺(佐倉市大佐倉)、常勝山妙胤寺(酒々井町本佐倉)等の菩提寺、祈願寺が建立され、城下の整備が整っていきました。さらに千葉氏一族、家臣等で構成される「佐倉歌壇」による歌合や、歌人衲叟馴窓による『雲玉和歌集』の編纂等文芸活動も盛んとなり、本佐倉城とその城下は下総の政治、経済、文化の中心となりました。3 後北条氏の影響
16世紀中頃以降関東に後北条氏の勢力が拡大していく中、千葉氏は5代当主利胤の早世、6代当主親胤の暗殺等も重なり、徐々にその影響を受けるようになっていきました。7代当主胤富の時には、本佐倉城からたった7kmにある臼井城(佐倉市)まで、上杉謙信に攻め込まれる大きな危機に見舞われました。胤富は千葉氏の所領を守るため、後北条氏と連携を取るようになり、その一方で千葉氏内部への介入を受けるようになっていきました。
4 千葉氏と本佐倉城の終焉
8代当主邦胤は北条氏政の娘を妻に迎えました。後北条氏の本城小田原城のかわらけの特徴をもつものが、本佐倉城から出土することや、朱印の使用は、後北条氏の影響を強く受けたこの時代を反映したものでしょう。邦胤の暗殺後は、北条氏政の子の直重が千葉氏当主を継承しました。しかしその直後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐において、千葉氏は後北条氏に味方し破れ滅亡し、これにより本佐倉城も廃城となりました。5 近世佐倉へのあけぼの
千葉氏滅亡後、佐倉支配の新たな拠点となったのは大堀陣屋(酒々井町本佐倉)でした。関東の新たな支配者となった徳川家康は、自身の息子2人を含む家臣達を送り込み佐倉の地を治めさせ、約20年後、慶長15年(1610)に佐倉城(佐倉市)が完成し、すべての機能が移転されるまで佐倉支配の中心となりました。国指定史跡 本佐倉城後はどんな城?
本佐倉城跡は、貴重な文化財として千葉県で初めて国史跡に指定されました(平成10年9月11日)。
1 巨大な土の城郭
本佐倉城の最終形態は、10の郭と衛生状に配した宿を惣構により囲い込んだおよそ南北2km、東西1kmの巨大城郭です。築城当時は内郭群の一部分程度の規模であり、16世紀後半頃から現在の姿へと整備されていったと考えられます。城の構造は、北総大地の特徴である台地とその奥深くまで谷津が入る複雑に入り組んだ地形を利用し、台地を削り谷を埋め、堀や土塁を配して郭を作った「土の城」です。2 発掘された千葉氏の屋敷群
城内で最も重要な詰めの郭である城山では、主殿、会所、庭園遺構、門、櫓等で構成される当主の屋敷群が発見されています。また当時使用されたかわらけや瀬戸美濃・常滑産製品、貿易陶磁器類などの遺物も多数出土しており戦国期に歴代千葉氏当主が居城した実感が得られます。