酒々井町教育委員会によって作成された本佐倉城の公式パンフレットです。
本佐倉城の歴史
本佐倉城は文明年間(1469~1486)に千葉氏の居城として千葉輔胤(すけたね)によって築城されました。輔胤は享徳三年(1454)に始まる関東の動乱による千葉氏内紛の中で下総守護千葉氏の家督を継いだ人物で、千葉家代々の居城であった「千葉城」が戦場となり荒廃したため、「本佐倉城」を築いて新たな千葉氏の居城としました。以後百余年、天正十八年(1590)に豊臣秀吉により千葉氏が滅ぼされるまで、当主九代が居城し下総の首府として栄えました。
貴重な文化財として国史跡に指定され(平成10年9月11日)、その保存整備が進められています。本佐倉城のつくり
本佐倉城は内郭群、外郭群、城下町を含む総構えの三重の同心円で構成されます。このうち内郭群は城主のための空間であり、御殿、馬場が存在した郭を中心とした複数の郭から構成されています。外郭群は土塁と空堀により区画された広大な面積を持つ郭で家臣の屋敷などに利用されていました。
城外から外郭、内郭に向かうと大規模で堅牢な空堀、土塁・櫓台などが複雑に配置されており戦いのための城郭であったことが理解できます。
過去に実施された埋蔵文化財調査では多くの建物跡とともに青磁・白磁などの中国陶磁器や碁石、天目茶碗、儀式用の杯など当時を物語る遺物が多く発見されています。本佐倉城とその城下町
本佐倉城は現在の地名では印旛郡酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉に所在しますが、中世では城の周辺を下総国印旛郡印東荘佐倉といいました。
城は印旛沼に接する標高約36mの台地に築かれ、その範囲は東西約700m、南北約800m、面積35平方メートルに及びます。現在に残る城跡は幾度かの拡張を施した戦国時代末期の最も発達した有様を伝えています。
城の周囲には東に「酒々井宿」、南に「本佐倉宿」、西に「鹿島宿」、北に「浜宿湊」が所在し城下町を形成していました。現在でも各所に屋敷名称などが伝承されています。城下のなごり
戦国時代本佐倉城下には「下、町屋」のほか数多くの寺社がありました。
祈祷寺としての真言五ヶ寺(文殊寺、吉祥寺、東光寺、大仏頂寺、宝珠院)、城主開基の勝胤寺、妙胤寺、家臣所縁の長勝寺などの寺院や千葉氏の氏神である妙見社、市の神である八坂神社、一姫社、鎮守である麻賀多神社など寺院が20ヶ寺、神社が17ヶ社(合祀社含まず)確認でき戦国時代の城下町の規模を想定することができます。
ほかにもいくつか提供いただきました。