奥沢城には鷺草伝説(さぎそうでんせつ)と呼ばれる伝承があります。
伝説にはいくつかの種類がありますが、この地に「鷺草」が咲き誇ったきっかけをテーマにしたものとなっています。
世田谷区では1968年(昭和43年)に区民の公募によって「鷺草」を「区の花」に制定しました。
以下、鷺草伝説のストーリーをいくつか引用します。鷺草伝説
奥沢城の城主・大平出羽ノ守の愛娘・常盤姫が、世田谷城の7代目城主・吉良頼康公に10人目の側室として選ばれ寵愛を受け子供を宿した。このことを嫉妬した頼康公の他の9人の側室達の計略で、常盤姫は無実の罪を頼康公に咎められ、最期は上馬の地で追手に捕らえられ自害した。世田谷城から追われる前に、常盤姫は大平出羽ノ守に助けを求める手紙を白鷺の足に付け託したが、折からの雨に濡れた足の手紙が重くなり白鷺は奥沢城近くで力尽き息絶えた。白鷺の亡骸は付近の村人によって発見され丁寧に葬られた。あくる年の夏に、その白鷺を埋めた場所に美しい花が一斉に咲き、それは白鷺の舞い立つ姿にそっくりな花であった。人々は、常盤姫の運命を偲んでこの花を鷺草と名付けた。Wikipedia
サギソウ伝説
今から400年以上も昔、世田谷城主・吉良頼康(きらよりやす)には奥沢城主・大平出羽守(おおひらでわのかみ)の娘で常盤(ときわ)という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりました。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがっていた白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。世田谷資料
悲劇のヒロイン 常盤姫
世はまさに戦国時代。各地の大名が兵を起こし、群雄割拠の様相を呈していたころのこと。世田谷から衾村(ふすまむら)、碑文谷郷一帯は、世田谷城主吉良頼康の支配下にあった。頼康は、奥沢城主大平出羽守の娘常盤(ときわ)姫を側室として迎えた。やがて、常盤は子をみごもったため、頼康はことのほか常盤をいつくしむようになった。血筋を絶やしてはならない大名のしきたりに従って、頼康には、常盤のほかに12人の側室がいた。彼女たちは、頼康を一人占めにする常盤をねたみ、「常盤様のお子は、殿のお子かどうか疑わしい」などと、まことしやかに頼康につげ口し、常盤への愛情を妨げようとたくらんだ。常盤の悪いうわさを、頼康は否定しながらも、心の中にはいつの間にかどす黒い疑惑の霧がたち込めていった。自然と常盤へも冷たい仕打ちをするようになった。とりなしてくれる者も無く、悲しみに暮れた常盤は、「いっそ死んで、身の潔白の証しにしよう」とまで思いつめた。奥沢城の父にあてて遺書をしたためると、小さいころからかわいがって、輿入れの際にも一緒に連れて来た、1羽の白鷺の足に結びつけ、奥沢の方角へ放った。主人のただならぬ様子をさとったかのように、白鷺は奥沢城目指してまっしぐらに飛び去った。ちょうどそのころ、衾村で狩りをしていた頼康は、この白鷺を見つけ射落としてしまった。みると、足に何やら結びつけてある。不審に思って開いてみると、姫から父へ覚悟の自殺を報じた文であった。驚いた頼康は、急ぎ城に帰ったが、時すでに遅く常盤は自害し果てた後であった。傍らには、死産の男の子の姿があった。疑いは晴れたが、もう常盤も子も戻っては来ない。深く後悔した頼康は、せめてもの償いにふたりの霊を慰めようと、領内の駒留(こまどめ)八幡宮に若宮と弁財天を祀ったのである。一方、使命半ばにして倒れた白鷺は、よほど無念だったのか、その地に鷺の飛翔する姿の花を咲かせる草になったという。歴史を訪ねて 鷺草(さぎそう)伝説
白鷺 密書を運ぶ
いつのころか、吉良氏の世田谷城が敵軍に包囲されたことがあった。奥沢城主大平出羽守(おおだいらでわのかみ)に援軍を頼みたいが、蟻のはい出るすきもない。そこで、日ごろ飼い慣らしておいた1羽の白鷺に、密書を結びつけて放った。しかし、白鷺はあんまり一生懸命に飛んだので、奥沢城の近くまで来ながら力尽きて落ちてしまった。以来、その地に鷺草が群れ咲くようになったという。歴史を訪ねて 鷺草(さぎそう)伝説