右側の説明板の内容
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大聖寺藩関所由来記
大聖寺関は、前田氏が加賀藩を治める以前から置かれていたものであるが、寛永十六年に大聖寺藩が創建すると同時に藩が管理するところとなった。その支配権は加賀藩がもち、越中の境関と相対し、加賀藩二大関門として重要な役割を担った。
平素は、大聖寺藩の軽卒を関番として配置したが、一朝有事に際しては金澤より士卒を派遣することとしていた。なお、有事とは、藩侯が死去した時、或いは金沢城が炎上した時や金沢城下に大火があった時などを指す。
関所は、主に越前方面より大聖寺城下に入ろうとする行旅の人及び携行の荷物を検閲した。門扉の開閉は、概ね、日の出と共に開き、日没と共に閉じるを慣例とし、夜間は絶対的に通行を禁止した。関番はその数約十数人、非番と当番に分かれ、昼夜を問わず詰めていた。
幕末には加賀から越前方面に抜けようとして、清水次郎長一行もこの関を通ったが、銃器を所持していたことで、咎められたという。この関所も明治二年(一八六九)の廃止令によって取り除かれ、その関門は現在、山ノ下寺院群の宗春寺に移設され、山門として利用されている。
平成二十三年十一月十五日
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右側の説明板の内容 --- 大聖寺藩関所由来記 大聖寺関は、前田氏が加賀藩を治める以前から置かれていたものであるが、寛永十六年に大聖寺藩が創建すると同時に藩が管理するところとなった。その支配権は加賀藩がもち、越中の境関と相対し、加賀藩二大関門として重要な役割を担った。 平素は、大聖寺藩の軽卒を関番として配置したが、一朝有事に際しては金澤より士卒を派遣することとしていた。なお、有事とは、藩侯が死去した時、或いは金沢城が炎上した時や金沢城下に大火があった時などを指す。 関所は、主に越前方面より大聖寺城下に入ろうとする行旅の人及び携行の荷物を検閲した。門扉の開閉は、概ね、日の出と共に開き、日没と共に閉じるを慣例とし、夜間は絶対的に通行を禁止した。関番はその数約十数人、非番と当番に分かれ、昼夜を問わず詰めていた。 幕末には加賀から越前方面に抜けようとして、清水次郎長一行もこの関を通ったが、銃器を所持していたことで、咎められたという。この関所も明治二年(一八六九)の廃止令によって取り除かれ、その関門は現在、山ノ下寺院群の宗春寺に移設され、山門として利用されている。 平成二十三年十一月十五日 ---
説明板の内容 ----- 対面所跡(たいめんしょあと) 大聖寺城(だいしょうじじょう)のほぼ中央に位置し、二(に)の丸(まる)の馬出曲輪(うまだしくるわ)に挟まれた城内最大の広さを誇る谷である。二(に)の丸(まる)下の岩盤斜面を削って面積を広げるなど、大規模な造成が行われており城主等の居館があったと推定されている。平坦面(へいたんめん)が三段に造成されており、最も広い中段部の一部で発掘調査が行われ建物の礎石(そせき)が確認されている。 錦白山城址保存会 平成29年10月吉日 ----
説明板の内容 --- 加賀市指定文化財(名勝) 江沼神社庭園 指定年月日 昭和三十五年十月七日 この庭園は、旧大聖寺藩邸の園地で、三代藩主利直公が宝永六年(一七〇九)藩邸再建に伴い長流亭とともに築造したものである。 壮大なひさご池、中島にかかる八ッ橋、石組の間から湧き出る清水(錦城山の下から引いているとも伝える)など、作庭にあたっては今の兼六園の影響があったと推定されている。 明治以降、江沼神社建設など周囲の改変はあったものの重要な池・島・涌泉や石組は原形を残した数少ない池泉廻遊式武家庭園である。 昭和六十一年十二月 加賀市教育委員会 ---
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