川廓通り(旧東海道)
川廓(かわぐるわ)通り
Kawaguruwa-dori城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画を表す、「くるわ(曲輪・郭・廓)」が由来となった「川廓通り」はその名のとおり東側は狩野川に面し、背後は沼津城(元三枚橋城)の外廓(がいかく)にあたる東海道として形成されてきました。
川廓通りは、狩野川に舟運(しゅううん)が開かれていた頃の舟着き場に隣接するなど、物資や人々の交流が盛んであり、江戸時代の宿場町、城下町であった沼津の中心的な地域に位置していました。
現在の「川廓通り」は当時の東海道沼津宿の面影を残そうと昭和30年代まであったとされる石畳をイメージして整備しました。末廣五十三次 一雄斎國輝画 沼津
富士山を背景に、中央に沼津城の三重櫓(さんじゅうやぐら)、二重櫓(にじゅうやぐら)、塀を手前に宿場の家並みに沿って、長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)のため上洛(じょうらく)する幕府軍の姿が描かれています。
行進しているのは、現在の川廓通りと思われます。東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)
江戸幕府が街道の状況を把握する為に、寛政年中(1789~1801年)、道中奉行(どうちゅうぶぎょう)に命じて作成した詳細な絵地図「五海道其外分間見取延絵図(そのほかぶんけんみとりのべえず)」は、東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中という五街道の絵図の一部で、「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」は、文化3年(1806年)に完成しました。静岡藩時代の沼津略画図
明治維新により、徳川家が駿河府内中70万石の藩主に任命されるとともに沼津藩の水野家が上総国(かずさのくに)(千葉県)に転封(てんぷう)になると旧幕臣が江戸から数多く移住してきた沼津は、重要な拠点となりました。
静岡藩の沼津兵学校があった周辺には沼津兵学校附属小学校、沼津病院、駿東・富士両郡を管轄した郡役所が設置されました。
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10月の定期ライブで榎本先生が推薦され、かつ来年の大河ドラマが平安時代が舞台と言うことで、予習のつもりで手に取りました。はっきり言って平安時代に関する知識はあまり有りませんでしたが、この著書には桓武天皇が都を平安京に移してから、摂関政治、院政、そして武士の時代までの約400年の貴族の権力闘争や平安京に住む人びとの営みを知る事が出来ました。特に関心を持ったのは平安京のトイレ事情で、汚い話もあり詳細は割愛しますが、テレビや映画ではなかなかお目にかかれない事なので興味深く読ませて頂きました。来年の大河まで時間はそう有りませんが、その前に是非読んでおく一冊だと思います。
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