名胡桃城址に立てられている案内板の内容を紹介します。
名胡桃城について
南に赤城山、北に谷川連峰、東西を山に囲まれたこの利根・沼田地方は、鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していた。沼田氏の全盛期には一族や重臣たちを各地に配して勢力の拡大を図った。名胡桃氏・小川氏・石倉氏・川田氏らである。
戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が赤城山を越えて利根に進攻し、沼田氏を追放して利根沼田一帯は北条氏の支配となった。
永禄3年(1560)越後から上杉謙信が三国峠を越えて進出し、名胡桃城をはじめ山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にし、更に前橋・武蔵へと進み北条氏と対戦した。
上杉謙信の利根沼田地方の支配は10年余も続いたが、天正6年(1578)謙信が春日山城内で急死すると、北条氏は沼田に進攻し再び北条氏の支配となった。
謙信の没した翌天正7年から8年にかけて、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が信州から吾妻の岩櫃城、利根に入って名胡桃城を始め他の山城や砦を攻略して天正8年念願としていた沼田城を調略した。その後沼田城をめぐって真田氏と北条氏の間で攻防が続いた。
この頃全国統一に向かって歩を固めていた秀吉は北条氏に対して上洛を促していたが、北条氏は上洛の条件として、真田領になっている利根・吾妻の二郡を北条領として欲しいと要求した。秀吉は昌幸に北条の条件を示したが、昌幸は沼田城は渡しても名胡桃は渡すことは出来ないと答えた。天正17年(1589)7月利根川の東と赤谷川の左岸を限って北条領、西は真田領と秀吉の裁定が決まった。しかし北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は名胡桃城を不法にも攻略してしまった。
この事件を知った秀吉は激怒し、大名間の私闘を禁じた惣無事令に反するとして、天正17年11月北条氏に対して戦いを宣し、秀吉は全国の大名に命じて小田原攻めを開始した。北条氏は何ヶ月の籠城後天正18年7月5日、秀吉の前に降伏した。5代・100年にわたって関東に覇を唱えた北条氏であったが、この名胡桃城事件が直接の原因となって北条氏は滅亡し100年余続いた戦国時代に終わりを告げた。
名胡桃城の築城について
この城は利根川・赤谷川の合流地点の南西の右岸の段丘上に築城されている。城の説明図にある般若郭に古い居館の址が発掘によって明らかになり、掘っ建て柱による建物20ヶ所が確認された。この居館址は名胡桃氏の居館であったと推定される。
名胡桃城は天正7年利根に進攻した真田昌幸によって現在の城址に築城されたものである。
平成4年に始まった名胡桃城の発掘調査にとって各郭の周囲には2メートル余の土塁が築かれていることが確認された。この城は真田昌幸が沼田城を攻略する拠点として築いたものであるが、天正18年北条氏の滅亡後廃城となり、長い年月の間には土塁は壊され畑として利用されてきた。
大正13年名胡桃城址保存会が地元の有志によって設立され、本丸址に徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立された。
◎昭和24年12月、県指定となる。