多賀城市によって作成された史都多賀城の公式パンフレットです。
『北の要衝』為政者が訪れたまち。
「多賀城」の名が初めて文献に現れるのは、『続日本紀』の宝亀十一年(七八〇)三月二十二日条のことです。多賀城の創建は奈良時代前半と考えられていましたが、発掘調査の結果や多賀城碑の研究から、現在では神亀元年(七二四)とされています。多賀城には陸奥国の国府が置かれ、蝦夷(えみし)征討政策にあたった鎮守府も置かれていたことがわかっています。
多賀城は宝亀十一年の伊治公鳥呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の反乱で焼失しますが、まもなく再建されます。延暦二十一年(八〇ニ)、鎮守府が坂上田村麻呂によって肝沢城(岩手県奥州市)に移された後も、国府の役割を果たしていました。平安時代の中頃を過ぎると「多賀城」の名は正史上で確認できなくなり、やがて「多賀国府」の名が現れるようになります。文治五年(一一八九)、奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝も多賀国府に立ち寄り戦後の処置を命じたことが『吾妻鏡』に記されています。南北朝時代には北畠顕家の奥州少幕府として名をとどめますが、徐々に荒廃し、歴史の中に埋れて行くのです。
その他のパンフレット
ほかにも多賀城についてのパンフレットを提供していただきました。