小田城墟◯碑。◯部分が読めません。土?士?
三島毅の文字が読めます。
2郭は南西馬出しの2〜3倍の広さです。
南半分に土塁が復元?復原?されてます。
この八幡社の裏手の山頂に前山城跡があるそうです。駐車場と登城口がわからない上に、曇って暗くなりつつあったので断念しました。
小田城跡歴史ひろば案内所でもらったパンフから。これがないと、攻城できません!
攻城前にここで情報収集してから攻めましょう!規模は小さな資料館ですが、小田城に関する情報量は少なくないです。
この辺りは道幅も広く両脇には水路もあり、大きな民家が経ち並んでました。廃城後にできた街でしょうか。
当時両脇の田は堀跡だと一目瞭然です。雰囲気のある道です。
土橋の北側半分は裾部分に石積みが施されているのがわかります。発掘調査を基に、廃城前の最終期の姿に復元されています。
南西馬出しの土塁上から。梅雨の合間の晴天で遠くまで見晴らしが効きました。
石列・礎石・土塁裾部分の石積みが、発掘調査時の姿に再現されてます。
いたるところに案内板があって親切です。もっと見に来る人が増えたら良いのに……
主郭から。手前の石敷き部分が園池域、土塁の向こうが建物域です。
日差しの割に湿度が低く、過ごしやすい日でした。
どの説明板も調査に基づいた丁寧な説明で、頭が下がります。
手前の溝の中の石樋が暗渠の端。向こうの大溝と繋がっていました。
国道125号線を小田十字路で西進、この案内板が見えたらあと少しで小田城跡です。
画像手前道路から土塁を突き破っているのは旧筑西線の線路跡。現在はりんりんロードとしてサイクリングロードになっていますが、公園化に伴い土塁下の犬走に沿うようなルートに変更されました。
涼台東側のりんりんロードから。向かって左が主郭、右が曲輪Ⅱ(東曲輪)。主郭周りでは、この辺りの堀幅が1番広かったようです。
堀幅の広さがわかってもらえるかと思います。
主郭南側の土塁上から。因みに南西虎口は臆病口と呼ばれていたようです。
水堀の中には木材を突き刺して、泳いで渡れないようにしていました。ここまで再現するんですね!
こちらも調査に基づいて復原されてます。
東池の北側にあったようです。現在その位置に休憩所として東屋が建てられています。
大溝遺構の一部に砂利敷き箇所が……。説明板はなかったのですが、大溝の底は砂利敷きだった事を教えてくれているのでしょうか?
この上に明治時代の城址碑があります。
廃藩置県後の明治6年に判事として赴任した男が、1日休暇に小田邨にある小田城を訪問した……北畠親房が義のために神皇正統記をここで記した……明治の御代になってもそのような義が大事だよ…的なことが書いてあるのだと思います。その男というのが、当時六等判事従六位三島毅。調べてみたら、のちの国学者三島中洲。二松学舎大学の創立者・宮中顧問なども歴任した人らしいです。
石碑には『…筑波郡小田邨、邨有古城墟、相傳北畠公親房……』の文字が読めます。この後に神皇正統記云々と書いてありました。
涼台脇から筑波山を。雲が多くなってきました。
エッジの効いた土塁。上部は削平してますので、往時はもう少し高さがあったと思われます。
どこにいても、筑波山が見下ろしてくれてました。
廃線になった筑西線が、主郭北西隅から南東へ突き抜けていました。その北西隅の土塁の断面をわかりやすく説明するために穴の空いた状態にしているようです。
画像中央の窪みが堀跡だと思います。
突き抜けてるでしょう?筑西線!!でも、充実の案内所はその筑西線の駅舎跡地にあるので、おあいこかなσ(^_^;)
主郭北東隅からりんりんロードを北上すると右手に大きな碑があります。
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