野田城跡に設置されてられている案内板の内容を紹介します。
野田城跡
この城は、永正5年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。
城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年定盈が関東へ移封されるまで続いた。昭和56年3月1日 新城市教育委員会
野田の戦
元亀4年(1573)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に侵入してきた。菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。
野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。
そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。新城市教育委員会