野田城
野田城

[愛知県][三河] 愛知県新城市豊島


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.05(--位)
  • 見学時間:30分(--位)
  • 攻城人数:369(295位)

野田城跡の案内板

野田城跡に設置されてられている案内板の内容を紹介します。

野田城跡
 この城は、永正5年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。
 城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
 戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年定盈が関東へ移封されるまで続いた。昭和56年3月1日 新城市教育委員会
野田の戦
 元亀4年(1573)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に侵入してきた。菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。
 野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。
 そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
 定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。新城市教育委員会
   

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