筒井城
筒井城

[奈良県][大和] 奈良県大和郡山市筒井町


  • 平均評価:★★☆☆☆ 2.47(--位)
  • 見学時間:22分(--位)
  • 攻城人数:255(422位)

筒井城の案内板

筒井城跡の中心部にある案内板の内容を紹介します。
説明文のほか、縄張り図、筒井氏系図、発掘調査の写真などが記されています。

筒井城と筒井氏
 筒井城は、主郭部を取り囲む内堀のほか、周囲の広い範囲を大きく外堀で取り囲む「惣構え(そうがまえ)」と呼ばれる構造を取っています。外堀で囲まれた範囲は東西約500m、南北約400mに及ぶ広大なもので、奈良県内の中世平地式城館の中では最大級の規模を誇ります。また、筒井城のある場所は、東西に走る奈良街道と南北方向の吉野街道が交わる部分にあり、交通の要衡を押さえています。
 城の中心となる主郭部は、この案内板があるフェンスで囲まれた区域から、東側の菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)を含む東西約120m、南北約100mの範囲と想定されます。主郭の周囲には内堀が巡らされ、中心部に城主が住む館がありました。発掘調査では館に伴う大規模な石組みの井戸が見つかっています。主郭部の北には大型の宅地割りが並んでおり、ここに筒井家の重臣が住んでいたものと思われます。また、南には八幡神社を中核とする農村部分(垣内)を、そのまま惣構えの中に取り込んでいます。このほか、吉野街道と奈良街道が交わる部分には、奈良街道を挟む形で南北それぞれに市場(商店街)がありました。
 筒井城が文献に初めて現れるのは15世紀初頭のことですが、発掘調査により、14世紀中ごろにはすでに主郭を取り囲む幅約6m、深さ約2mもの大規模な堀(内堀)があったことがわかっています。
 一方、筒井氏の祖とされるのは、筒井順覚(じゅんかく)で、至徳3年(1386)の文献にその名が記されています。しかし、それをさかのぼる康永2年(1343)の文献にも筒井氏と思われる武士2名(順慎、順円)の署名があることが、近年の研究で明らかになりました。すなわち、筒井城と筒井氏は、共に14世紀中ごろに歴史の表舞台に現れるということになります。
 筒井城最後の城主となったのは、筒井順慶(1549 - 84)です。順慶は、苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和支配を任じられました。天正8年(1580)、筒井城は織田信長の命によって破却され、筒井氏は居城をここから約3.5km北にある郡山城に移しました。平成26年1月 大和郡山市
   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

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まーちゃんさん)

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